ドイツ史

プロイセンの台頭 – 兵隊王 フリードリヒ1世

投稿日:2017年12月28日 更新日:

ドイツ史の初回は、今日のドイツを形成する原動力となったプロイセンの誕生とその初期の発展について紹介します。

プロイセン王国誕生

プロイセンはクーアランド地方 / Kurlandのゲルマン民族の居住地の地域名を指す。この地方に住むゲルマン民族の居住地は、当時のポーランド領、それに神聖ローマ帝国の支配下に分断されていた。17世紀の30年戦争の結果、これがひとつに統一され、Kurland の諸侯であったフリードリヒ一世が初代の王となる。

王と言っても、プロイセンは地方の小さな諸侯のひとつに過ぎず、又、周囲を強大な国家に囲まれていた。自国の利益を追求するような政治は小国には命取りで、小さなプロイセンは侵略されないように両天秤外交が必要であった。

プロイセンの台頭 – 兵隊王 フリードリヒ1世

18世紀になってフリードリヒ1世を継いだプロイセンの2代目の王様Friedrich Wilhelm1世は、先代とは異なり国の出費を厳しく管理、他の分野で節約した金を軍備につぎ込む。これによりプロイセンは小国でありながら、軍事力だけは他の諸侯並みになった 。そして1815年におきたPommern戦役では、デンマーク(当時は大国)、ザクセン、プロイセンの連合軍はスウェーデン軍を撃破する。

スウェーデン (当時は超大国)の支配下にあったPommern地方は、デンマークとプロイセン領になった。これによってプロイセンの国土は大きくなったばかりか、国際的にも「あのスウェーデン軍を破ったプロイセン」ということで一目置かれるようになった。以後、Wilhelm1世は(初代)Soldatenkoenig(兵士王)の敬称で呼ばれるようになる。

欧州の大国に

しかしプロイセンが強国として地位を確立するのは、Wilhelm1世の息子で跡を継いだFriedrich2世になってから。フリードリヒ2世は幼少の頃からひ弱で、青年になっても気が弱く、Wilhelm1世は「これではプロイセンの将来は危うい。」と将来を憂いた。そこでなんとかひとっぱしの跡継ぎになるように厳しい教育を施すが、これが全くの逆効果。息子はスパルタ教育に恐れをなして、宮殿を抜け出し、仲のいい友達とイギリスに亡命しようとする。

これを知ったWilhelm1世は激怒。お世継ぎはプロイセンを出る前に逮捕されて、牢獄に放り込まれる。逃亡を助けた友人は、Friedrich2世の目の前で処刑されてしまう。(もっともフリードリヒ2世は気絶してしまい、処刑は見ていなかったと言われている。)Wilhelm1世はこのどこまでも情けない息子に落胆して、プロイセンの将来を心配しながら死去してしまう。

ところがどういう風のふきまわしか、フリードリヒ2世はプロイセンの王になると、これまでとは打って変って別のような人間になる。手始めに当時はオーストリア帝国の支配下にあったシュレージエン地方を勝手に占領。これが原因で第一次シュレージエン戦争が起こる。

この戦役で最初のオーストリア軍との交戦になったMollwitzでの戦いでは、プロイセン軍を率いていたフリードリヒ2世は、戦争経験がないため、戦術上の大きなミスをおかしてしまう。「これはやばい!」と見た王は、なんと戦場から逃げ出してしまう。

指揮官不在のプロイセン軍を率いたのはSchwerin元帥。元帥は不利な情勢を建て直し、巧みな戦術でオーストリア軍を撃破してしまう。その後も幾つかの戦役があったが、バイエルン軍の応援もあってプロイセンはこの戦争に勝利する。

先制攻撃

この戦役でプロイセンは国を飛躍的に拡大して、列強の仲間入りをする。これは(領域を取られた)オーストリアには面白くない。 しかし一国で軍事大国家のプロイセンを攻撃するほどの自信がない。そこでイギリス、オランダ、ザクセンを見方に引き入れて戦争準備を始めた。敵が戦争準備を整えるまで待つ気など毛頭ないフリードリヒ2世は、先制攻撃を開始して第二次シュレージエン戦争/ 1744~1745年が勃発する。

プロイセンはオーストリア軍を撃破して、プラハの攻略に成功するも、補給が続かず領内に退却する破目に。その後ベルリンに進撃してきたザクセン、オーストリア軍を撃退すると、退却する敵を追撃、最後にはドレスデンでザクセン、オーストリア軍を撃破、1745年にドレスデンで和平条約が結ばれる。

7年戦争

復讐に燃えるオーストリアの女帝マリア テレジアは2度の敗戦にも懲りないで、手抜かりなく3度目の戦争準備にかかる。まずは外交努力によりフランス、ロシア、神聖ローマ帝国、スウエーデンと同盟を結ぶと、プロイセンはすっかり孤立化してしまった。今度、プロイセン側についのは英国のみ。この四面楚歌の状況にあっては、先制攻撃あるのみ。(状況が絶望的になった際のプロイセンの伝統的な解決方法。)

こうして最後のシュレージエン戦争は1756年に(第三次シュレージエン戦争/別名、7年戦争)勃発するフリードリヒ2世はロシア軍が押し寄せてくる前に敵の主力、ザクセン、オーストリア軍の撃破を目指しまずはザクセンに侵入、これを占領する。しかし当時、ザクセンは神聖ローマ帝国の領土。領土を宣戦布告もなく占領されてしまったものだから、神聖ローマ帝国のドイツ人には面白くない。

こうして神聖ローマ帝国(ドイツ諸侯同盟軍)がプロイセンに宣戦布告して兵を進めて来た。同時にシュレージエン地方奪回を目指してオーストリア軍も進軍を開始。さらにはスウェーデン軍が北方からプロイセンに侵入、挙句の果てには東方からロシアの大群がプロイセンに侵入してくる。いくら軍事力を誇るプロイセンでも、この圧倒的な兵力を誇る連合軍と同時に戦えるわけがない。シュレージエン地方はおろか、首都ベルリンまで(一時)占領されてしまう。

軍は多くの兵を失い、国は長い戦役で疲れ果て、国庫はからっぽ、プロイセンの運命は風前の灯。側近はベルリンにやってきて、「もう勝ち目はないから、国が無くなる前に和平を結んでください。」と嘆願するも、フリードリヒ2世は耳をかさない。しかし流石に自国の領土の大部分が占領されて、兵力が減り続ける様を見て頑固者の王も自信が揺らいだ。

「7日以内に戦況が好転しなければ、毒を煽る。」と宣言するまでに。この宣言後の5日目に奇跡が起きる。ロシアの女帝、エリザベス(ツアーに嫁入したドイツ人)が死去したのだ。 これにより戦況は一気に好転する。女帝エリザベスの跡を継いだ息子は、フリードリヒ2世の隠れたファンだった。新しいツアーは即刻、軍の撤収を命じる。

すると長い戦役で疲労していたスウエーデンも講和を申し出てきた。 これにより東プロイセンで戦っていた兵力が自由になった。フリードリヒ2世はまだ残っている兵力を再結集してシュレージエンに投入、オーストリア軍を駆逐することに成功する。急に戦況が悪化すると、流石のマリア テレジアも負けを認めてこれ以上、兵を送ってはこなかった。

最後は ヘッセン(プロイセン領)に侵入していたフランス軍を駆逐すると、7年にもの長きに渡ったこの戦役も1763年に終わりを告げ、プロイセンはシュレージエン地方の正当な所有者として国際的に認知されることとなる。

ポーランド分割

その後もフリードリヒ2世は欧州の状況を巧みに利用、ポーランド分割などでプロイセンの領土を広げ続けるも、実際に戦争に加わることはなく、国力の温存、増強を図った。こうして後にビスマルクとモルトケがドイツ帝国を築く基礎を作った。言うまでもなくこの王はドイツ(プロイセン)人に最も人気のある王様だ。(戦争に負けなかったから。)だから、ドイツのどこの町に行っても、Friedrich2世の別称、バルバロッサは通りや広場の名前に使われて、今日に至っても王の業績を称えている。

-ドイツ史

執筆者:

nishi

コメントを残す

アーカイブ