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ドイツの三大ヒーローの一人 アルミニウス って誰?

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ドイツの三大ヒーローの一人 アルミニウス って誰?

ドイツの三大ヒーローの一人、アルミニウス。

と言われても

「誰?」

と思われることだろう。

ドイツ人に

「日本人はそんな事も知らないの?」

と言われなくて済むように、ドイツの三大ヒーローについて紹介します。

ドイツの三大ヒーローとは?

ドイツに限らず何処の国でも

「ヒーローになる条件」

は、

  • 戦争に勝った
  • とっくの昔に死んでいる

が大前提。

質問
生きていたら駄目なの?

 

人生、塞翁が馬です。

どんなに有名なスポーツ選手、町長、政治家、芸能人でも、明日はセクハラか性加害で訴えられる運命。

とっくの昔に死んでいたら、その点、心配がない。

日本で言えば東郷平八郎や徳川家康がこれに相当。

ドイツでは

  • アルミニウス
  • フリードリヒ大王
  • ビスマルク

が三大ヒーローです。

ビスマルクはご存じ、ドイツ統一を成し遂げた首相です。

フリードリヒ大王は、オーストリア、フランス、ロシアを敵にして勝利したプロイセンの王様。

でもアルミニウスって誰?

ドイツの三大ヒーロー アルミニウス って誰?


銅像を見れば想像できる通り、アルミニウスは

「大昔」

の人物です。

生まれた正確な年代は不明。

あのイエズスよりも数年前に今日の、

“Ostwestfalen-Lippe”(オストファーレンリッペ)

生まれました。

わかりやすく言えば、

“Demolt”(デモルト市)近郊。

なんでも

“Cherusker”(ケルスカー族)

の首長の家に生まれたと言われています。

参照 : Cherusker

ローマ帝国時代

当時、ライン川流域はローマ帝国の支配地域でした。

中には

「屈服しない!」

と抵抗を続ける種族もいましたが、ケルスカー族は

「長い物には巻かれよ。」

と、ローマ帝国に従属する道を選択。

アルミニウスはちょうど徳川家康のように、

「人質」

として子供時代にローマ帝国に出され、ローマ人として育ちます。

戦士としての才能があったようで、幾多の戦役で活躍。

ローマ帝国から厚い信頼を得て市民権を獲得、人質だったのに

「騎士」

の地位までいただきます。

アルミニウス の反乱

西暦7~8年にアルミニウスは故郷に帰ってきます。

植民地を納めていた政務官ヴァルヌスが率いるローマ兵団の指揮官の一員として。

上司のヴァルヌスの信頼が厚かったのに、アルミニウスは故郷での

「ローマ帝国の手先」

としての役割に疑問を抱くようになります。

植民地と言えば

「聞こえがいい。」

かもしれませんが、原住民にとっては重税を取り立てられるだけ。

わかりやすく言えば、アルミニスは

「みかじめ料」

を取り立てる暴力団のような役割でした。

西暦9年、政務官ヴァルヌスが

「冬営地」

に移動する機会を狙い、アルミニウスは反旗を翻すことに。

こっそりと自分の種族や仲の良かった種族を説得して、攻撃の計画を立てます。

もっともローマ兵は三個旅団で兵士の数、質で明らかに上。

そこでアルミニウスは深い森の中を移動中のローマ兵に攻撃をしかけます。

森の中ではローマ兵は有名なスクランクスが組めず、一列渋滞。

後方から前方に援護に行こうにも、前に進める道がない。

こうしてローマ兵三個旅団が殲滅されてしまいます。

皇帝アウグストゥスにとって、そしてローマ帝国軍にとって、かってない規模の敗北でした。

アルミニウスの勝利

もっとも皇帝アウグストゥスが、たかが一回の敗北で植民地をあきらめるわけもなし。

「三個旅団でダメなら八個旅団だ!」

と、皇帝アウグストゥスは大軍を派遣します。

しかしゲルマン種族は

「アルミニウスの勝利」

に勇気ずけられて反乱軍に参加。

ローマ帝国時代の歴史家は

「アルミニウスは4~5万人の反乱兵を率いていた。」

と書いています。

(大きな誇張という説も有り。)

アルミニスはローマ帝国から派遣された八個旅団と数日に渡り、森の中で死闘を繰り広げます。

最終的には、

「分が悪い。」

とローマ帝国軍が撤退。

今回もアルミニスの勝利に終わります。

もっとも皇帝アウグストゥスが、たかが二回の敗北で植民地をあきらめるわけもなし。

ローマ帝国はさらなる援軍を派遣して、反乱軍との戦いが数年続きます。

西暦16年、遂にローマ帝国軍は反乱軍に勝利。

“Viele Hunde sind des Hasen tot.”(多勢に無勢)

です。

さらにアルミニスは重傷を負って命からがら、戦場から撤退。

しかし戦いを諦めることなく徹底抗戦。

皇帝アウグストゥスの跡継ぎ、皇帝ティベリウスは

「兵士の損失が多すぎる。」

として、これ以上の派兵を中止。

こうしてアルミニウスは数の上で勝るローマ軍に打ち勝ちます。

アルミニウスの死

そもそもアルミニウスが

「ローマ帝国軍」

と戦っている時からローマ帝国側についたゲルマン種族は多く、

「内乱状態」

にあったゲルマン種族。

アルミニウスをもってしても、ゲルマン種族を統一することはありませんでした。

ところが

「アルミニウスの勝利」

により、

「アルミニウスが王になるんじゃないか?」

と他の種族は大いに嫉妬。

ローマ帝国に、

「アルミニウスを毒殺したら、何をくれる?」

と交渉するほど、ゲルマン種族は近視眼。

(何故かローマ帝国はこのオファーを蹴ります。)

こうしたアルミニウスに反旗を翻した筆頭人物が、アルミニウスの叔父だったほどゲルマン民族内では常に内紛状態。

アルミニウスはこうした

「ローマ帝国派のゲルマン種族」

に対して数々の戦いを繰り広げます。

この内紛にも勝利したアルミニウスが

「ゲルマン帝国を築くか?」

と思われていた中、よりによって身内によって殺害されてしまいます。

この悲劇がアルミニウスの人気をさらに高める原因となっているようです。

ジークフリートのモデル説

ドイツで誰もが知っている昔話と言えば、ジークフリート伝説です。

 

人間離れした能力を持つ英雄ジークフリートが竜を殺し、その財宝を手に入れるという物語。

「なんで竜が財宝を必要とするの?」

と聞きたくなりますが、まあ、それは桃太郎に出てくる鬼も同じ。

おとぎ話の展開にはさまざまなバージョンがありますが、起源は13世紀に記された

「ニーベルンゲン英雄唄」

です。

 

当時はほとんどの市民が読み書きなんかできない時代。

そこで物語形式で長い間語り継がれていたものが、13世紀に初めて

「ドイツ語」

で書き残されました。

この為、物語の起源はかなり古いと推測されます。

歴史家は

「アルミニウスが英雄ジークフリートのモデルになった。」

と主張。

実際、英雄ジークフリートが帝国を建設する前に殺されるのも、アルミニウスと同じ。

違うのは、ジークフリートの奥さんが

「殺された夫の復讐」

をなす場面。

このくだりは日本の忠臣蔵です。

ヘルマン記念塔

ヘルマン記念塔

19世紀、ドイツで初めて

「愛国心」

が芽生えます。

原因はナポレオンによるドイツ占領。

それまでは

「俺はバイエルン人」

とお隣のヴュルテンベルクと戦争を繰り広げていたのに、

「俺はドイツ人」

という意識が芽生えたんです。

(バイエルン人を除く。)

するとローマ帝国の圧政からゲルマン民族を解放したアルミニウス人気が急上昇。

1875年、アルミニウス生誕の地、デモルトに巨大な銅像が建築されます。

もっとも銅像の名前は、

“Hermannsdenkmal”(ヘルマン記念塔)

です。

理由は簡単。

「アルミニウス」

というイタリア人の名前では受けが悪い。

そこで想像力に長けた作家が、

「ヘルマン戦記」

という演劇を書き、ここでアルミニウスの一生を再現。

これが空前の大ヒット。

この為、銅像はヘルマン記念塔と呼ばれています。

皆まで言えば、米国に移住したドイツ人がミネソタ州で馬鹿でかい

「ヘルマン銅像」

を建てたほど、ドイツ人にとってアルミニウスはスーパーヒーローです。

-ドイツ史, 人物史

執筆者:

nishi

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