BMW 誕生100周年 !! アウグスブルクで目撃!BMWのクラシックカー
“Bayerische Motoren Werke”、通称BMWは、2016年に誕生100周年を迎えた。
日本でも名前を知っている人は多いが、
「名前だけ」
というケースがほとんど。
ダイムラーがBMWを、ただ同然の金で買収する話になっていたことを、どれだけの人が知っているだろう。
しかし今やBMWはそのダイムラーも羨む、
「ドイツで一番利益効率のいい車メーカー」
に変身した。
BMW誕生100周年を記念して、今日までの軌跡を紹介してみよう。
この記事の目次
BMW の創設史
会社の創設者はKarl Rapp というドイツ人だ。
バイエルン人はがっかりするかもしれないが、バイエル人ではない。
勤勉(そしてケチ)で有名なシュヴァーベン人で、テュービンゲン郊外の田舎町で生まれた(*1)。
技術者の見習いを終えて就職したのが、当時からシュヴァーベンの大企業だったダイムラーだ。
その後、当時の最先端だった飛行船のモーターを製造する会社に転職する。
ところが転職したこの会社が、倒産してしまう。
日本なら再就職を考えるだろうが、そこは生まれながらの企業家、鶏口牛後の精神で有り金をはたいて”Dörhöfer”という会社を買収する(*2)。
この会社はミュンヘンで飛行船のエンジンを開発、製造していた。
買収後、会社名に自分の名前を入れて”Rapp-Motorenwerke”と命名する。
もし創設者が後で会社名を変更しなかったら、”RMW”だったろう。
“Bayerische Motoren Werke” 誕生
その1年後の1917年、会社の名前を何故か
“Bayerische Motoren Werke GmbH”
と改名、通称 BMWとなった。
さらに1年後、投資家からお金を集めるために株式会社に転換、”Bayerische Motoren Werke AG”となる。
水平対向エンジンの誕生
BMWの発展は戦争と繋がりが深い。
会社がまだGmbHであった頃、世の中は第一次大戦中の真っただ中。
ここで同社の技術者が、高高度でも馬力を失わない航空エンジン、BMW IIIa を開発する。
まさにこれがBMWで今日まで受け継がれている、水平対向6気筒エンジンだった。
陸軍調達局がこのエンジン性能に感激して、名もない会社に2000個のエンジンを発注する。
このBMWの最初のエンジンが搭載された戦闘機が、フォッカーD7型(Fokker D.VII)で、第一次大戦中の最高傑作品と呼ばれている。
こうして誕生したばかりの会社は、彗星のように表舞台に出てきた。
会社(一時)消滅
しかしドイツの敗戦に伴い、ドイツは今後5年間、飛行機(それに飛行機エンジン)の製造を禁止される。
飛行機エンジンが唯一の製品だったBMWの運命は、これで尽きたかに見えた。
実際、イタリア人の大株主は株を売却して会社を離れるが、BMWの名前の権利だけはもっていってしまう。
残されたのは、名前も売れる品もない工場。
そこでまずは同社が1916年に別個に登記していた Bayerische Flugzeugwerke(略称 BFW : バイエルン飛行機工場)を、1922年に BMW AGと改名。
二度目のBMWの誕生になる。
同社の企業史には、この後者の誕生話のみ語られているが、実際にはもっと複雑な事情があった(*3)。
最初のバイクR32誕生
BMWにとって幸いだったのは、技術者が会社に残ってくれたこと。
あの航空機エンジンを設計した技術社が、今度はBMW最初のバイク、R32を開発した。
開発者はこのバイクの設計に、5週間しかからなかったと言っている。
これが今日でもBMWの製品のひとつになっているバイクの誕生で、当時から2気筒の水平対向エンジンを積んでいた(*4)。
1924年に航空機エンジンの生産禁止令が解かれると、(禁止中もひそかに開発を続けていた)同社は直ちに製造を開始、BMWは見事に復活を果たした。
BMW 自動車メーカーへ変身!
1928年、BMWはアイザナッハにあった小型車を製造していた車メーカーを買収して、同社初の車の開発を始めた。
翌1929年には早くも会社で最初に完成した車、BMW 3/15 を発表した。
実はこの車、英国のオーステイン社(車)のライセンス生産だった。
こうして会社は自動車製造のノウハウを身に付けていった。
本当にBMWが最初に開発した車は、1933年に発表されたBMW303型だ。
6気筒の水平対向エンジンは勿論、ここで初めて有名な”BMW-Nieren”(BMWの肝臓)が登場した。
写真提供 : Von MartinHansV – Eigenes Werk, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4916602
そう、豚鼻ではなく、ドイツでは肝臓と呼ばれている。
技術者曰く、
「空気取り込み口を斜めにして角をなくすことで、空気抵抗を減らす目的があった。」
との事で、デザイン性を優先したものではない。
オールドタイーマーファンの憧れ BMW380
1937年からたったの2年間、462台だけ生産されたスポーツ車が”BMW380″。
自動車レースで数々の勝利を収め、同社の戦前の最高傑作車だ。
現在では50万ユーロもの値がつく、オールドタイーマーファンの憧れの的だ。
画像提供 : Von Lothar Spurzem – Spurzem, CC BY-SA 2.0 de, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4053459
第二次大戦中の活動
第二次大戦中、BMWは主に航空機モーターを生産した。
同社の売り上げの90%は、航空機モーターのドイツ空軍への納入から来ていた。
戦争中に開発された内燃エンジンの最高傑作は、”Doppelstern”(二重の星)構造の BMW801 エンジン。
1800馬力を超える高性能を誇り、主要な戦闘機に搭載された(*5)。
最終モデルは2000馬力を超える能力を発揮した。
しかし部品の消耗が高く、部品交換、整備が欠かせない欠点もあった。
優れたエンジンではあったが、数の上で圧倒的な優勢を誇る連合軍を前に、ドイツ空軍が制空権を回復することはできなかった。
この劣勢を一気に回復させる目的で開発されたのが、BMW003の名前で開発されたBMWのジェットエンジンだ。
しかし新しい技術なので開発が遅れた。
実線に投入しても故障なく機能するようになったのが、終戦間際の1944年。
ヒトラーが国民戦闘機 /Volksjägerと名図けられたHeinkel He 162、それに世界で最初のジェット爆撃機 Arad234搭載されたモデルでは10万馬力を発揮した(*6)。
戦争中にBMWが軍に開発したサイドカー付きのバイク、R75はとても有名で、今でも戦争映画には欠かせない。
第二次大戦後
第二次大戦の敗戦により、ドイツは再軍備を禁止された。
空軍がないので、これまで収入の90%を占めていた飛行機エンジン事業がなくなった。
車の生産を再開したいが、軍事産業に従事した工場はほぼ破壊されており、生産を開始する工場も資産もなかった。
唯一、エイゼナッハの工場は生き延びたが、ここはソビエトの占領地域だった。
仮にミュンヘン工場が無傷でも、これまでミュンヘン工場では車を生産したことがなかった。
おまけに設計図もノウハウもないので、車の生産は困難だったろう。
そこでBMWは瓦礫の中から拾い出して整備した工作機械で、戦前のバイクや車のブレーキの生産をして、細々と生き延びていた。
再出発はバイクから
1948年に総力を結集して戦前のオートバイ、R23の継続モデル、R24を発表した。
外見も中身も、ほぼ戦前のモデルと変わらないこのバイク。
搭載していたのは単気筒エンジン。
これが当時のBMWが作れる最高技術作品だった。
バロックの天使 BMW 起死回生なるか?
1952年、バイエルンモーター工場は文字通り会社の命運をかけて、戦後初の自動車、それも高級モデルBMW501/502を発表した。
お得意の6気筒水平対向エンジンを積んだこの車は、
「バロックの天使」
という愛称を頂戴して、人気モデルになった。
写真提供 : Von Wikisympathisant – Eigenes Werk, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=75550687
2年後には会社で始めての8気筒モデルまで導入された。
「これでBMWの再生か?」
と思ったら、全く逆の結果になった。
バロックの天使の車体の製造には想定以上の費用が必要で、車を売ると4000マルクの赤字を出す結果となった。
これに加えて50年代にはバイクの売り上げが減退、1958年、59年は大赤字に陥った。
ダイムラーベンツに売却?
当時、BMWの所有者はドイツ銀行だった。
過半数を超える株を所有しており、社長も取締り役員会長もドイツ銀行員。
銀行員は数字しか見ないので、赤字の会社の将来はないと判断、ダイムラーベンツに売却されることになった。
何故、ダイムラーなのか?
それは当時、ダイムラーベンツの所有者もドイツ銀行だったから(*7)。
風前の灯だったバイエルンモーター工場のダイムラーへの売却を阻止したのは、
残存株主、労働組合、それにお金持ちの石炭商人だった。
反対派はフランクフルトの弁護士の助けを借りて、10%の株式を取得、ドイツ銀行の計画をストップさせることに成功した。
クアント氏の登場
身売りを回避したBMWは、
「お金を稼げる(大量に売れる)庶民向けのモデルが必要だ。」
と悟ったが、開発費は何処にもなかった。
ドイツ銀行に頼んでも新たな融資をしてくれることは有りえず、このままジリ貧からドカ貧になるのを待つだけだった。
ここで企業家のクアント氏が、まさに白馬に乗って登場した。
同氏はBMWが大型増資を行い新型モデルの開発費を捻出、さらにはドイツ銀行の影響力を最小限度に抑えることを提案した。
だが大型増資を行なっても、
「倒産間際の会社の株を大量に買おう!」
という奇特な人がいないのは、火を見るより明きからか。
そこでクアント氏は、
「売れ残った株は、俺が全部買ってやる。」
と提案した。
同氏の提案が取締役員会議で採択され、BMWが大型増資を行なった結果、クアント氏は60%を越える株を所有する筆頭株主になった。
救世主 BMW1500
写真提供 : Von Michael H. – http://www.fahrzeugbilder.de/name/einzelbild/number/29955/kategorie/pkw-oldtimer~bmw~1500-2000-neue-klasse.html, CC BY-SA 3.0 de, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19325022
豊富な資金を手に入れたBMWは、1962年、BMW1500を発表した。
メッセで大人気を博し、
「購入価格は8500マルク」
と発表したが、販売開始の前にはインフレで9485マルクに値上げされたが、車は売れた。
その後、1600シリーズ、1700シリーズ、2000シリーズが登場、どのモデルも消費者に大いに人気になり、このモデルはBMWの救世主となった。
BMW 誕生100周年 – 危うく倒産から大企業に成長!
1970年、新社長がキューエンハイム氏が就任する。
同氏は20年以上に渡って社長に就任した伝説的なマネージャーで、彼の任期中、BMWの売り上げは18倍に躍進した。
そしていよいよ同氏の下で、今日まで続いている3シーリーズの初期モデル、 BMW E21が登場する。
写真提供 : Von Freud – Eigenes Werk, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=27124205
「あやうく倒産」
の経験からBMWは、ひとつのモデル、事業だけに集中することに危険を感じ、事業を多方面に広げていった。
ソフトウエア、化学品の製造会社、さらにはかっての航空事業にまで手を広げた。
もっとも航空事業を除けば、この多角化事業の多くは失敗に終わった。
キューエンハイム氏の跡を継いだのがピシェッツリーダー社長だ。

氏はBMW一社だけでは車の生産台数が少なくて、世界企業になれないと確信、他社を買収する戦略にでた。
氏が社長の時代に英国のローバー社、ロールスロイス、さらには日本の三菱自動車まで傘下に入れたが、大失敗に終わった。
長く赤字を出して悲鳴を上げていたローバーは、ドイツ人が陣頭指揮をとっても会社の赤字体質は改善しなかった。
そこでBMW はローバーの参加にあった「ミニ」だけ保持して、残りを英国の投資家グループに売却した。
大損を出した社長はその責任を取らされて、首になった。
ロールスロイス争奪戦
この時期、センセーショナルなロールスロイス争奪戦が繰り広げられた。
当初、BMWはロールスロイス社と買収交渉を進め、買収額も決まっていた。
ところがここで高級車を欲しがっていたフルクスヴァーゲン社が噂を聞きつけて、高額の買収オファーを出してきた。
その後、双方、買収額を釣り上げて、争奪戦が繰り広げられた。
最後に勝った(買った)のは、金に物をいわせたフルクスヴァーゲン社。
ところが今、ロールスロイスを生産しているのはBMW。
一体、どうしたことだろう。
バイエルン人は、金の代わりに頭を使った。
調べてみると、
「ロールスロイス」
の登録商標は車を生産しているロールスロイス社ではなく、航空機エンジンを生産しているロールスロイス社が所有していることがわかった。
車を生産しているロールスロイス社は、お金を払ってこの名前を使わせてもらっていた!
そこでBMWは航空機エンジンを生産しているロールスロイス社と交渉、
「ロールスロイス」
の登録商標を買収してしまったのだ!
高い金を払ってロールスロイス社を買ったフルクスヴァーゲン(VW)は、残り2年間の登録商標の使用権と、傘下にあったベントレーだけ。
そこでVWはロールスロイスの製造を諦めて、ベントレーの製造に集中した。
これがうまくいった。
このロールスロイス争奪戦は、今でも車業界で語り草になっている。
高い利益率
BMWが優れているのは、デザインや性能ばかりではない。
利益率(マージン)が業界でもトップレベルにある(*8)。
例えば車の生産台数で世界一のフルクスヴァーゲン車、利益率が低くて、お金を稼いでいない。
アウデイなどの高級車モデルになると利益率がよくなるが、それでもBMWの利益率には及ばない。
貧乏な時代を経験したのが原因なのか、BMWはコストを抑えていい車を作るノウハウを持っている。
お陰でBMWのマネージャーは車業界で最もヘッドハンテイングされる確立が高い。
ローバー買収でBMWを首になった社長、その後、VW の社長に納まったのは有名な話。
それほどBMWのマネージャーはとても人気が高い。
一体、バイエルン人はどうやっているのだろう?
基幹株主 クアント一家
その成功の裏には同社を支えている大株主、クアント家の存在があると言われている。
一家で過半数の株を所有しているので、BMWは大胆なプロジェクトに着手できる。
プロジェクトが失敗して株価が低迷しても、クアント家は株を手放さず、会社を支えてくれる。
こうした後ろ盾があるので、大胆な改革を行い利益率が高くなっていると言われている。
BMWが大企業に変身すると、クアント一家はドイツを代表する大富豪になった。
今はクアント氏の子供が株を分散所有しているが、娘のクラッテン女史はドイツで一番のお金持ちの女性だ。
クアント氏、BMWを買収する資産を一体、どこでその富を得たのだろう。
実は同氏、戦争中、ナチスに協力して占領地で企業を強制買収して、事業を拡大していった。
本来は戦争犯罪人としてニュンベルク裁判で訴えられる筈だったのだが、クアント氏は姿をくらましており、占領軍の追及を受けなかった。
それでも本来なら欠席裁判が開かれる筈だが、開かれなかった。
こうして戦後、クアント氏は戦争犯罪人の汚名を着せられることなく、堂々と事業を再開することができた。
注釈
*1 すなわちダイムラーもポルシェもBMWも、ドイツの車メーカーはシュヴァーベン人が作った会社。例外はVWだけ。
*2 ラップ氏が後に息子に語った話によると、BMWの起源はケムニッツ(東ドイツ)にある”Schneeweis”(雪のような白)という会社にある。
この会社は飛行船のモーターを建設していたが、会社の経営に行き詰まり、”Dörhöfer”社に買収されていた。これが理由で飛行船のモーターに詳しいラップ氏が、この会社に目を付けた。
*3 会社名の変更により、「バイエルン飛行機工場」、通称、BFW の名前が存在しなくなった。
「それはもったいない。」とBMWは1923年、アウグスブルクにてもう一度、「バイエルン飛行機工場」、通称、BFW を登記。
これは後にメッサーシュミット AGとなり、メッサーシュミット氏の設計により、数々の名機を生み出すことになる。
*4 水平対向2気筒エンジンを積んだBMWのバイクは、今でも販売されています。
*5 第二次大戦後、このエンジンはソビエト軍に押収されて、ソビエトで開発、自己生産されて誕生したのがミグ-9戦闘機。朝鮮戦争で米国のプロペラ戦闘機を相手に大活躍した。
*6 このエンジンは日本でも石川Ne-20の名前でライセンス生産されたが、当時の日本の技術力ではドイツ生産の60%の出力しか出せなった。
*7 今では想像できないが、ドイツ銀行はドイツを代表する複数の企業を所有する、名声も実力も備えた大銀行だった。
*8 唯一、日本勢ではスズキだけがBMWの利益率を上回っている。