ドイツ史 政治 & 軍事史

普仏戦争 – ドイツ統一の悲願 達成なるか?

投稿日:2018年2月25日 更新日:


今回のテーマは普仏戦争です。

この戦争は、これまで統一されたことがなかったドイツが、その

「悲願」

をかけて欧州に残る最後の強敵、フランスを相手戦った

「ドイツ統一戦争」

です。

普仏戦争前夜

ナポレオン戦争の戦後処理を決めたウイーン会議。

ここで

“Deutscher Bund”(ドイツ連盟)

の誕生が決まった。

その盟主に収まったのがオーストリア大帝国。

そのオーストリアを巧みな戦術で破ったプロイセン

ドイツ戦争 – ケーニヒスグレーツの戦い

1867年、

“Norddeutscher Bund”(北ドイツ同盟)

の設立を宣言した。

 

名実ともに

「ドイツの盟主」

になったプロイセン、まだ独立王国であるバイエルン、バーデン、ヴュルテムベルク王国を軍事制圧して、

「ドイツ統一」

を宣言することはできる。

しかしビスマルクは、この方法は返って逆効果だと考えた。

 

武力で相手をねじ伏せると

「しこり」

が残る。

これがいつ、

「寝首を搔く」

事になるやもしれない。

しかし

自主的にドイツ帝国に参加させれることができれば、愛国心を呼びこし、絆が固くなる。

 

問題は

“Wie?”(どうやって?)

だ。

ところがその機会は以外に早くやってきた。

スペイン王位継承問題

欧州の覇権を狙っていたナポレオン3世にとって、北ドイツ同盟の出現は好ましくなかった。

そしてオーストリアがやったように、ナポレオンはプロイセンを過小評価していた。

北ドイツ同盟の2倍の国土を保有するフランスは、軍事力でもプロイセンに勝っていると確信していた。

 

ここでスペインで軍が革命を起こして、実権を掌握した。

女帝イサベラは王位から転落、フランスに亡命した。

プロイセンは親戚にあたるレオポルト王子を、スペインの王位につけようとした。

これがナポレオン3世に気に入るわけがない。

ホーエンツオラー(プロイセンの王家)がスペインで王位に付けば、フランスはホーエンツオラーに囲まれて2面戦争を余儀なくされる。

ナポレオン3世は大使をプロイセン国王、

“Wilhelm I.”(ヴィルヘルム一世)

送り、王位継承を辞退するように要求した。

ヴィルヘルム一世はどういうわけか、フランスの要求を聞き入れてしまう。

これはフランスの外交上の勝利だった。

ところがである。

おフランスの大使はこの勝利に満足せず、

「プロイセンは未来永劫、スペインの王位継承に口を出す事はございません。」

という誓約書を出すように要求。

これはヴィルヘルム一世も丁寧にお断り。

すると

「ヴィルヘルム一世に直談判したい。」

とフランス大使。

プロイセン宮内庁はこの一件を外務省に送り、

「丁寧に断るように。」

と伝えた。

フェイクニュース

この知らせにプロイセン陸軍は大いに落胆した。

スペイン王位継承でフランスと戦争になることを期待、密かに対フランス戦争の準備を始めていたのだ。

ここでビスマルクが機転を発揮、

「まだ終わったわけじゃない。」

と、政府が発表する公式発表を将軍に見せた。

意味が飲み込めない将軍の前でビスマルクはこの発表を

「フランス大使は国王から厳しく叱責された。」

と改ざん、これを新聞に載せるように命じた。

そう、フェイクニュースだ。

当時は侮辱を言った、言わないで決闘をする時代。

ビスマルクはこのフェイクニュースに憤慨したナポレオン三世が、プロイセンに宣戦布告してくると期待した。

そして期待は裏切られなかった。

電報が新聞に掲載されて3日後、フランスの外務大臣はパリに駐在していたプロイセンの大使を呼び寄せると

フランスはプロイセンと戦争状態にあると見なす。」

と、宣戦を布告した。

普仏戦争 – ドイツ統一の悲願 達成なるか?

ビスマルクは言うに及ばず、プロイセン参謀本部はこの知らせに大いに喜んだ。

プロイセンはすでに軍を召集済み。

フランス国境まで数時間で行けるマインツに30万の大軍が集結していた。

 

勿論、大国のフランスも常備軍30万を抱えていた。

が、その内20万はメキシコからアルゲリアまで、フランスの植民地に派遣されていた。

フランスがすぐに動員できるのはわずか10万。

それもフランス各地から召集する必要があった。

それでもフランスがプロイセンに宣戦布告をしたのには理由があった。

南ドイツの3王国、バイエルン、バーデン、ヴュルテムベルク王国が、

  1. 中立を守る
  2. 最悪の場合でもバイエルン王国はフランスの側についてくれる

と思っていた。

さらに!

フランスとオーストリアの関係は深く、プロイセンに負けたオーストリアがプロイセンの背面を攻撃してくれると計算していた。

ところがそんなことはお見通しのビスマルク。

バイエルン王国、バーデン家、ヴュルテムベルク王国を説得、プロイセンの側について参戦する事を約束をさせていた。

そして肝心のオーストリアは、プロイセンがウイーンまでに軍を進めずにオーストリアを

「いたわった」

ことに感謝して、中立の立場を取った。

賢いビスマルクの先見の明が見事に功を奏した。

こうして始まった普仏戦争は

ドイツ史上、初めてドイツ人が同じ側に立って戦う戦争だ。

ナポレオン3世 vs. モルトケ将軍

まずは普仏戦争で動員された兵力を見てみよう。

バイエルン、バーデン、ヴュルテムベルク王国の参戦により、ドイツ側は戦術予備も含めると140万人の兵隊を招集することができた。

一方、フランスも動員令により110万の軍を召集した。

次いで普仏戦争で両軍が採った戦術を比較してみよう。

フランス軍の作戦は

  1. マインツに向けて速やかに進軍
  2. 北ドイツ軍(プロイセン軍)と南ドイツ軍(バイエルン、バーデン、ヴュルテムベルク)を分断すると
  3. 各個撃破する

というもの。

ナポレオン1世の戦略のコピーを採用していた。

これに対抗するドイツ軍はモルトケ将軍の下、3年前から戦闘計画を練っていた。

その計画は

  1. フランス軍に先手を打たして、ドイツ領内へ進軍させる
  2. その侵入してきたフランス軍の側面を突き、
  3. メッツとシュトラースブルクの間で敵の戦線に穴をあけ
  4. 敵の背後に出て補給線を断ち、敵を包囲殲滅する

という戦術。

計画通りにフランス軍が動いてくれるだろうか?

フランス軍の防衛線突破!

1870年8月、ついに戦闘の火蓋が切っておろされた。

先手を打ったのはフランス軍。

モルトケ将軍の計画通り、ザールブリュッケンに軍を進めて占領した。

「待ってました!」

とプロイセン軍は、

“Weißenburg”でフランス国境を急襲すると敵の防衛線を突破、敵の背後に出た。

戦況図
提供 : Von Enyavar – Eigenes Werk, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=97068923

しかしフランス軍も馬鹿ではなかった。

包囲される危険を察知すると、進軍をやめて退却を開始した。

まさにモルトケ元帥の計画通り。

こうしてフランスの戦術、北ドイツ軍と南ドイツ軍を分断するは戦争の初期に放棄された

しかし日本軍のインパール作戦と異なり、フランス軍はその壊滅を避けて戦闘を継続することができた。

その後の戦いは、フランス国内で展開された。

ドイツ軍は毎回、対抗するフランス軍を迂回してその側面を突いた。

フランス軍がドイツ軍の企図に気づく頃には、すでに包囲される一歩手前。

フランス軍は撤退に告ぐ撤退を強いられて、最後は要塞に立て篭もった。

するとドイツ軍は対オーストリア戦で活躍した

クルップの大砲

で猛砲撃。

軍産複合体 テユッセン クルップ 誕生史

ドイツ軍の大砲はフランス軍の大砲よりも射程距離が7~8KMも長い上、正確な射撃ができた。

結果、砲撃戦ではフランス軍はドイツの火砲に歯が立たなかった。

ベルダン、セダンなどフランスの要塞が次々とドイツ軍に攻略されて、ナポレオン三世まで捕虜になってしまう。

普仏戦争 長期化

敵の将を捕らえたプロイセンは、普仏戦争の終結を望んだ。

が、フランスは思ったよりも手ごわかった。

フランス政府は第三共和制政府を宣言、フランス国民の愛国心に訴えた大動員を開始した。

こうして訓練中の兵隊を含めると90万の兵力を準備した。

以降、戦況は行き詰まり状態になった。

プロイセン軍にはフランス軍を制圧できる軍事力がなかった。

一方、フランス軍には攻勢を開始してドイツ軍を撤退に強いる軍事力に欠けた。

戦争の長期化を案じモルトケ将軍は、ドイツに残る予備戦力をフランス戦線に配置、フランスの反抗に備えたかった。

しかしビスマルクが反対した。

オーストリアが

「おかしな浮気心」

を起こすかもしれないからだ。

ようやくメッツの要塞を落としたドイツ軍は、解放された戦力を投入してフランスに圧力をかけた。

パリも包囲されて、毎日、ドイツ軍の容赦ない砲撃に遇った。

ここでフランス政府は国会選挙をするという理由で、21日間の停戦を打診してきた。

普仏戦争 終結

実はフランス政府内では、

「ドイツ軍に停戦を打診しても、パリの降伏を要求されるだけ。無駄。」

という意見が支配的だった。

ところが、

「無駄かどうか、打診してみないとわからない。」

という現実派に説得されたのだった。

案の定、モルトケ将軍は停戦の条件に、

「パリに篭城している25万のフランス軍の降伏。」

を要求した。

一方、ビスマルクは

「新政権は停戦後に戦争状態に戻ることを厭い、和平を提案してくる。」

 

と予想した。

結局、ビスマルクの提案が採用され、フランスの名誉を尊重して条件なしで停戦に承諾した。

これにはフランス政府が驚いた。

そして新政権はビスマルクが予想したとおり、和平を提案してきた。

こうして1871年、フランクフルトで普仏戦争の講和条約が結ばれた。

ドイツ統一の悲願

冒頭で

「これまで統一されたことがなかったドイツ」

と書きました。

これを読んで、

質問
神聖ローマ帝国は?

 

と思われた方、私も(昔)そう思いました。

実は神聖ローマ帝国は

「大小のざまざまな諸侯の集合体」

だったんです。

確かに皇帝も選出されましたけど、権力の強い諸侯は

「気に入らない!」

と、皇帝相手に戦争を起こすことも度々。

結果、ドイツはこれまで統一されたことがなかたんです。

だから、

「ドイツ人」

とう自覚もなく、愛国心も芽生えませんでした。

これを象徴するドイツ語が、

“Landsleute”(同郷人)

です。

同国人という言葉は存在していませんでした。

今でもないので

“Landsleute”

を流用しています。

第二帝国の誕生

まだ普仏戦争中にビスマルクは、南ドイツの諸王国に北ドイツ同盟への参加を求めて、交渉を始めます。

1870年11月に合意に達すると、合意文書が北ドイツ同盟の国会に送られます。

国会で可決されたのは12月10日でしたが

「きりがいい」

ので、

「発効は1871年1月1日」

ということになったんです。

こうして1871年1月、

  1. 北ドイツ同盟がドイツ帝国という名称に代わり
  2. 国家元首にはプロイセンの王様が”Kaiser”(皇帝)として君臨することになった

その君臨式典が、まだ戦争中のパリの郊外にあるベルサイユ宮殿で行われることまで決まった。

ドイツの皇帝 問題

ところがである。

プロイセンの王様であるヴィルヘルム一世は、

“Der Kaiser vom Deutschland”(ドイツの皇帝)という称号を要求した。

この呼び方には南ドイツの王様が反対した。

ドイツの皇帝という名前は、まるでプロイセンが南ドイツ王国を征服したように聞こえるからだ。

しかしヴィルヘルム一世はドイツの皇帝という称号でない限り、皇帝の座に就かないとダダをこねた。

この懸案は最後の瞬間まで決着がつかないほどの大問題に発展。

決断はドイツ帝国樹立を宣誓する役目をおおせつかったバーデン王国の王様にゆだねられた。

機転を利かせたバーデン王国の王様が

“Der Kaiser vom Deutschland”

の代わりに、

„ Hoch auf dem Kaiser Wilhelm“(ヴィルヘルム皇帝万歳!)

と呼ぶと、ヴィルヘルム一世はこの称号を受け入れて抵抗しなかった。

一同はほっと胸をなでおろし、こうしてドイツ第二帝国が誕生した。

ドイツ統一は誰の功績?

日本ではビスマルクが一人でドイツの統一を成し遂げたか、もっとひどい場合はプロイセンが軍事力だけでドイツを統一したかのように紹介されている。

真実は、

  1. ビスマルクの先見の明
  2. ビスマルクと言い合いになり、何度か更迭しかけたが思いとどまってビスマルクの忠告を受け入れた思慮のあるヴィルヘルム一世
  3. ドイツ陸軍の近代装備
  4. プロイセン参謀本部、とりわけモルトケ将軍の優れた立案

これらが全部揃ったから成し遂げることができたドイツ統一だった。

ドイツ統一後、モルトケ将軍は元帥に昇進

「モルトケが居る限り、負ける事はない。」

との神話が生まれ、元帥は90歳の高齢になるまで引退を許されなかった。

モルトケ引退後、ヴィルヘルム一世の跡を継いだヴィルヘルム二世はビスマルクの進言に嫌気が指して、ビスマルクを更迭してしまう。

そして迎えることになる第一次世界大戦。

ドイツは純粋な軍事力、参謀本部とドイツの軍事力だけで戦争に突入した。

しかしビスマルクの外交力がなくドイツは孤立、ヴィルヘルム二世はビスマルクの代わりに参謀本部の言うがまま。

そしてモルトケ元帥の後を継いだ甥のモルトケ将軍は、元帥が遺産として残した対フランス攻略計画を修正して開戦することになる。

二正面戦争を克服! 伝説のシュリーフェンプラン

-ドイツ史, 政治 & 軍事史

執筆者:

nishi

  1. […] あとで解説する普仏戦争では、 […]

  2. […] ビスマルクはオーストリアを挑発して宣戦布告させたと同じ手段で、フランスを挑発し始めた。 […]

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