ドイツ史 政治 & 軍事史

独墺仲違いの発端 ドイツーデンマーク戦争

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独墺仲違いの原因 ドイツーデンマーク戦争

今回はドイツーデンマーク戦争について書きます。

ナポレオンによるドイツ占領はドイツ人の間に

「愛国心」

を呼び覚ます。

しかしこの愛国心、ナポレオンを破っても収まることはなく

「ドイツーデンマーク戦争」

を引き起こします。

ホルシュタイン侯爵領

出典 : Von Maximilian Dörrbecker (Chumwa) – Eigenes Werk, usingthis map by NordNordWestthis derivated map by Chumwa, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=48026087

北ドイツのシュレスビヒーホルシュタイン州。

19世紀中頃まではデンマークの影響下にある

  • シュレスビヒ侯爵領
  • ホルシタイン侯爵領
  • ラァオエンブルク侯爵領

だったんです。

なのにナポレオン駆逐後、南の侯爵領は宗主国に反旗を翻し

“Deutscher-Bund”(ドイツ連盟)

に加入を表明。

 

そもそも南の侯爵領ではドイツ人が多く住んおり、

「ドイツ領になりたい。」

という

「国民の希望」

があったんです。

しかし北のシュレスビヒでは

  • ドイツ語
  • デンマーク語
  • フリース語

を話しており、愛国心はドイツ語住民を除けばかなり限定的。

この為、ドイツ同盟には参加せず、デンマークを宗主国として侯爵領として存続を続けることに。

11月憲法

すると今度はデンマークで愛国運動が高まります。

当時、デンマークにはトランプが

「喉から手が出るほど欲しい」

グリーンランドの他、アイスランドやノウルウエー領も納める

「北の超大国」

だったんです。

そんな大国の国民は、隣人のドイツ人の無作法に激怒。

「シュレスビヒも取られてしまう前に、デンマーク領にしてしまえ!」

と訴えます。

しかし国王は

「そんな事をすると戦争になる。」

と消極的。

しかし国民の要望をスルーすると、

「そんな国王は要らない!」

と王家廃止運動に発展しかねない。

そこで国王は泣く泣く1863年、

“Novemberverfassung”(11月憲法)

に署名。

この憲法によりデンマークの法が、シュレスビヒ侯爵でも有効に。

参照 : 11月憲法

 

これが

「ドイツーデンマーク戦争」

の引き金になりました。

外交の天才 ビスマルク

皆さんご存じドイツの宰相ビスマクルク。

現実は

「皆さんが読むビスマルク像」

とは大違いで、

  • 勉強嫌い
  • 怠け者
  • 女好き
  • 賭け事好き

という困った人物。

大学時代は授業をさぼって賭け事ばかり。

多額の借金を親に返済してもらいます。

そうビスマルク家は

“von Bismarck”

という名前で貴族だったんです。

始めて就いた役所での仕事は、カジノで見かけた女性をおいかけて無断欠勤。

「あっ!」

と言う間にクビになります。

こんな

「どうしようもない人物」

「親の七光り」

で地方議員に。

政治が世襲制になっている日本と同じです。

そのビスマルクは外交官のキャリアを積むため、外国に派遣されます。

この経験が、その才能を開花させました。

状況分析

と言うのもビスマルクには

大局を見抜く才能

 

があったんです。

ドイツ人の特徴は

「木を見て森を見ず」

ですが、ビスマルクは

「森の中から針を見つける才能」

の持ち主。

あとで解説する普仏戦争では、

普仏戦争勃発 – ナポレオン3世 vs. モルトケ将軍

背面を守るためにまずはロシアと同盟を組みます。

今回も

「いずれはデンマークと戦争になる。」

と正しく状況を分析。

そこで背面援護の為、北ドイツに

「何の利害関係もないオーストリア帝国」

を事前に説得。

「いざ鎌倉!」

となった際は、

「一緒に出兵する。」

という約束を取り付けます。

デンマーク戦争準備

まず独墺連合軍は

「11月憲法への署名」

を妨げるべく、ドイツ同盟に参加したホルシュタインに軍を進め、デンマークに

「圧力」

をかけます

もっともここで言う

「ドイツ」

とはプロイセンの事ですが。

プロイセン軍は3万5000の兵と110の野戦法。

オーストリア軍は2万1300の兵と45の野戦法。

対するデンマークも開戦に備えて徴兵令を発令します。

開戦時は3万6000の兵と104の野戦法を擁しており、決してあなどれない大国。

ドイツーデンマーク戦争 勃発

シュレシビヒーホルシュタイン

出典 : Von Malte89 – Eigenes Werk based on File:Karte Deutsch-Dänischer Krieg.png by NordNordWest, CC BY 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=51357020

1864年1月、ドイツ連盟はデンマークに対して

「48時間以内に11月憲法を撤回せよ。」

との宣戦布告を国会で採択する。

2月1日、プロイセン軍はシュレスビヒ領に侵攻して、戦闘の火ぶたがきっておろされる。

ところがである。

デンマークも馬鹿じゃない!

ホルシュタインとシュレシビヒの国境は河。

その河の向こう側に

「ナバロンの要塞」

に匹敵する

“Danewerk”

を築いていたんです。

参照 : Danewerk

 

デンマーク軍は

「渡河作戦」

をする独墺軍を狙い撃ち。

多大の戦死者が出た。

ドイツーデンマーク戦争 迂回作戦

ここでプロイセンの参謀本部が、

「ダーネベルク要塞 攻略作戦」

を立案します。

オーストリア軍が引き続きダーネベルク要塞に

「馬鹿の一つ覚えの正面攻撃」

をしかけ、敵の注意をひきつけます。

一方、

プロイセン軍は主戦場を大きく迂回、要塞を守っていたデンマーク軍の背後に出現。

 

これに驚いたデンマーク軍、プロイセン軍による

「包囲殲滅」

を避けるには退却しかなかった。

もっともプロイセン軍は

「そうはさせるものか!」

と退却するデンマーク軍を猛攻撃。

最後尾を任された部隊は軍の主力の脱出を可能にするため、プロイセン軍相手に最後の一人まで戦って玉砕。

そのお陰でデンマーク軍は撤退に成功。

しかしこの

「ダーネベルク要塞の陥落」

はデンマーク人を震撼させた。

なんでも、

「ダーネベルク要塞」

はデンマークの軍歌にも出てくるほどの

「デンマーク人の誇り」

「まさかあの要塞は落とせまい。」

と高を括っていたんです。

退却を命じた司令官は責任を負わされて解任された。

ドイツーデンマーク戦争 Sønderborg 陥落

しかし!

氷河期に氷で削られたこの地方には、至るところに河川がある。

退却するデンマーク軍は河川を超える度に、押し寄せる独墺軍に抵抗。

独墺軍は何度も何度も危険な渡河作戦を強いられた。

最後はシュレスビヒとデンマーク国境にある

“Sønderborg”

参照 : Sønderborg

 

「最後の防衛線」

を築いた。

独墺軍は先の経験から学び、クルップ製の最新の野戦砲でデンマーク軍の陣地を四六時中砲撃。

陣地は大砲の爆発で鋤き返されてしまう。

そう、

プロイセン軍のクルップ砲は、デンマーク軍よりも射程距離が長かったのだ!

 

敵の陣地をボコボコにしてからプロイセン軍が突撃、この防衛線の大半を占領。

この時点でデンマーク軍には勝ち目がなくなった。

数か月後、デンマークは和解に応じて戦争が終結した。

この戦争の結果、シュレスビヒ州は今日までドイツに属しているが、今でもデンマーク人が住んでいる。

独墺仲違いの発端

ドイツーデンマーク戦争中はうまく行っていた独墺関係。

しかし1864年7月に停戦条約が締結されてから、急速に悪化していきます。

その原因は占領地の統括。

当初、

  • シュレスビヒはプロイセンが統治
  • ホルシュタインとラウエンブルクはオーストリアが統治

する事で同意に達していたんです。

ところがプロイセンは、自ら同意した条約に文句をつけ始めます。

プロイセンをなだめるため、オーストリアはラウエンブルクを

「二束三文」

でプロイセンに売却。

にも拘わらずプロイセンは、自分が同意したオーストリアによるホルシュタイン統治に不満。

その後もプロイセンは不満を言い続け、独墺関係は急速に冷却していきます。

ドイツ統一戦争 – ケーニヒスグレーツの戦い

-ドイツ史, 政治 & 軍事史

執筆者:

nishi

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