連立協議中の次期政権が発表した巨額のインフラ投資計画。
総選挙の結果が出てから、わずか9日後の発表だ。
協議の時間は、わずか1週間しかなかった。
この短い時点で、日本の国家予算を遥かに上回る超巨額の財政措置を立ち上げた。
その裏には、一体何があったのだろう?
この記事の目次
巨額のインフラ投資計画
2025年2月23日の総選挙で勝利したCDU/CSU。
極右政党が大躍進した為、国会で過半数を制する唯一の可能性は
「SPDとの連立政権」
のみ。
選挙結果が出てから数日後には、連立政権樹立に向けて交渉が始まった。
その
「未来の政権」
は3月4日(火曜日)、かってない巨額のインフラ投資計画を発表した。(*)
選挙からわずか9日しか経っていない。
連立交渉開始からわずか1週間だ。
もう2ヶ月も
「インフレ対策」
を協議している日本政府とは、月とすっぽん。
一体、どうやってこんなに早く、こんな大胆なインフラ投資計画が成立したのだろう?
Jörg Kukies と Steffen Mayer
歴史的な大事業をこんな短時間にやってのけたのは、SPDの政治家
Jörg Kukies氏と
Steffean Mayer氏
の2名の功績である。
信号政権下でKukies氏は、ショルツ首相の経済アドバイザー。
マイヤー氏は首相官邸にある経済政策室の室長だった。
クキース氏は、
「このままではドイツ経済は坂を下り落ちるだけ。」
と、借金ブレーキ法の改正に腐心していた。
しかし!
どんな案を出しても、財務大臣のリントナー氏(FDP)が却下。
ドイツ経済がボロボロになっていくのを、指を咥えて眺めているしかできなかった。
信号政権崩壊
ここで信号政権が崩壊した。
ショルツ首相は空席になった財務大臣にクキース氏を任命。
マイヤー氏を財務省の政務次官に任命した。
こうしてドイツ史上
「最も無名の財務大臣」
が誕生した。
しかし!
クキース氏は長年、財務省での勤務経験がありきわめて優秀。
多分、戦後で最も優秀な財務大臣だ。
もっともクキース氏は財務大臣になったのに
「大臣専用車」
を使用せず、相変わらず電車で通勤。
加えて
「一般出入り口」
から通勤してくるので、セキュリテイーに
「関係者以外は入場できません。」
と出勤を拒否されたこともある。
そんなに無名な財務大臣だ。
インフラ投資計画 誕生のきっかけ
まだ総選挙の真っただ中。
ある集会にてCDU党首のメルツ党首が、
「債務ブレーキ法の改革が必要になることもあり得る。」
と発言した。
これを聞いたクキース氏、
「ひょっとしたら出番がやってくるかも?」
と、財務省内で密かに特別チームを立ち上ると、
「債務ブレーキ法の改正によるドイツ経済再生計画」
の立案にかかった。
最初の計画(草案)が出来上がったのが2月25日。
総選挙の結果が出てから、2日しか経ってない。
おまけに総選挙でSPDは大敗。
この時点では
「6つの案」
があったと言われている。
これが外部にもれると、とってもマズイ。
そこでこの計画は極秘扱いされ
“Non-Paper”(紙なし計画)
として作成された。
あとで国会査問委員会で調査が始まっても、
「書類は存在しておりません。」
と堂々と言えるわけだ。
Ökonomen-Papier
クキース氏は財務大臣という肩書があるため、大臣が動くと外部に漏れる。
そこで計画を一緒に練ったザールランド州の財務大臣を
“Bevollmächtigte”(全権大使)
にすると、経済界と計画を煮詰めることにした。
その中にはドイツで一番有名な経済研究所
“Ifo-Institut”
の所長、Clement Fuest氏も含まれていた。
経済界との秘密会合は2月27日(木曜日)に開催され、23時まで続いた。
ここで
- 4000億ユーロの特別軍事予算
- 5000億ユーロの特別インフラ投資予算
という案に落ち着いた。
インフラ投資予算が、軍事予算よりも大きいのには意味あがる。
との懸念があった。
この為、軍事予算は意図的にインフラ投資額よりも小さくされた。
この案が
“Ökonomen-Papier”(経済団体提案書)
と呼ばれるもの。
この提案書は連立協議の
「たたき台」
としてCDU/CSU、それにSPDに送られた。
もっとも会合の出席者は総じて、
「新しい国会が召集される前の古い国会で、憲法改正を通すなんて絶対無理!」
と悲観的だった。
経済対策会議
“Ökonomen-Papier”(経済団体提案書)
が届いた翌日、間髪おかずに経済界とCDU/CSUの代表による
「経済対策会議」
が開かれた。
その会議には経済団体提案書を作成した一人である、Ifo-Institut所長 Clement Fuest氏も出席した。
フュースト氏はそもそも、
「借金反対派」
として知られている。
だから保守派のCDU/CSUからの信頼は厚い。
ここでフュースト氏は、ドイツ経済が停滞から抜け出すには、
「付け焼刃」
ではダメで、根本的な改革、すなわち憲法改正による巨額のインフラ投資計画の必要性を説いた。
この案、とりわけのその数字に大きさは参加者に
「深い印象」
を残した。
よりによって
「借金反対派」
が、巨額の借金を奨励しているのだ。
裏どり
新政権にとって
「まず最初にすべき」
は現状把握である。
言い替えると
「国家財政がどれだけ空っぽなのか」
を把握する必要がある。
そこでクキース氏はCDU/CSUの経済対策会議に呼び出され
「数字を示す」
ように求められた。
ここで氏は持参した書類を配布、
「財務省の試算では、国家財政に1300~1500億ユーロの穴がある。」
と説明した。
これが10億や20億ユーロの
「財政の穴」
なら、小手先の手段で埋めることができる。
しかし
「1300~1500億ユーロの穴」
となると、単なる緊縮財政では到底及ばない。
しかもこの穴は、現状の政策を維持した場合の赤字なのだ。
国防費の増額は含まれていない。
インフラ投資計画 第三の案
この数字を突き付けられたメルツ党首、流石は党首の座についているだけあって、
「飲み込み」
が早かった。
メルツ氏は
「この週末に両党の専門家が集まって、対策を協議しよう。」
と提案した。
この対策会議に出席したクキース氏は
「ボロボロのインフラの整備に今後10年で、3000億ユーロ必要になる。」
との試算を示した。
そう、クキース氏は極秘に練ってきた
「ドイツ経済再生計画案」
を、やっとこの時点で明らかにしたわけだ。
その案は全部で3種類あった。
債務ブレーキ法の抜本的な改革で費用を捻出する案から、国防費をすべて債務から外す案などだ。
この案を持ち帰った両党は、それぞれの立場から協議の上
「第三の案」
を採択することにした。
それが
- 5000億ユーロのインフラ特別予算
- 国家財政の1%を超える軍事費は、赤字枠に計上されない
というものだった。
というのも第三案では、インフラ投資予算が軍事予算を上回っていた。
これなら党内左派(ガチの共産主義者)も文句を言えない。
一方、CDU/CSUにとっても第三案には、
- 事実上、軍事予算には上限なし
- ドイツが実際どれだけ軍事費を捻出するか、プーチンに秘密にできる
という利点があった。
インフラ投資計画 ショーダウン
週末の対策会議から2日後の3月4日(火曜日)、連立協議中の両党の党首は記者会見を開き、
- 5000億ユーロの特別インフラ投資計画
- 特別軍事予算
を告知した。
メルツ党首に至っては、
“What ever it takes,,”(幾らかかろうが、やり遂げる)
という有名なドラギ総裁の言葉を盗用して、この巨額のインフラ投資計画を正当化した。
まるでこの計画が、自身の発案であるかのような口ぶりだった。
この発表に株式市場は一気に高騰、
ドイツ国内の景気期待感さえも上昇した。
冷遇
ところがである。
「巨額のインフラ投資計画」
の生みの親であるクキース氏の努力は一切、報われなかった。
次期政権では氏は財務大臣の職を
「SPD 史上かってない総選挙での大敗北」
に導いたクリンゲルバイル党首にはく奪され、
「どこかの官庁にお払い箱」
にされる見込みだ。
どうもクキース氏の
「はっきり物を言う性格」
が、SPD 党内左派に嫌われたらしい。
もうひとりの生みの親、マイヤー氏は
「運が良ければ財務省に残れる。」
という程度。
そもそもドイツ経済再生計画が
「日の目を見るかどうか」
さえわからない時期に準備していた二人の立役者なのに、SPDはその
「尽力」
をねぎらうことさえしなかった。
* 注釈
厳密に言えば、
「かってない。」
というのは誤り。
かってナチスが、同様のインフラ投資計画で大不況を退治した事がある。
日本で
「巨額のインフラ投資計画」
と言えば、ルーズベルト大統領のニューディール政策が真っ先に想起される。
しかし!
ルーズベルトが大統領に就任したのは、ヒトラーと同じ1933年。
ヒトラーは首相に就任後、
“Reichsautobahn”(帝国アオトーバーン計画)
を代表とする巨大なインフラ投資計画で、2年も経たないで大不況を退治した。
一方、ルーズベルトは大不況に効果的な手段を見いだせなかった。
そしてようやく1935年になって、ニューディール政策を発表。
ヒトラーの成功を真似たのかもしれない。
このように、巨額のインフラ投資計画で不況を退治したのは、ナチスが最初である。