ナポレオンに負けた事がきっかけで始まった プロイセンの改革。
この改革で
「まだ中世のまんま」
だったプロイセン王国は一気に近代化された。
とりわけ軍の改革は功を奏し、あのナポレオンに勝利。
最終的にはドイツ統一を可能にした。
以下に詳しく解説します。
この記事の目次
プロイセン王国
19世紀に悲願のドイツ統一を成し遂げることになるプロイセン王国。
そのプロイセン王国を築いたのは、
“Hohenzollern”(ホーヘンツォラーン一家)
です。
そのホーヘンツォラーはシュバーヴェン地方出身の貴族。
名前が最初に登場するのは1061年の書簡です。
そこには、
「二人のホーヘンツォラーンが戦死した。」
と書かれており、すでにこの時期には
「地方の領主」
だったようです。
1192年にはニュンベルクの領主に。
1415年にはブランブルク辺境伯に。
そのブランデンブルク辺境伯、1525年にプロイセン侯爵に昇進。
1701年からは
「プロイセン王国」
と名前を変えました。
7年戦争
そのプロイセン王国、はるかに強大なオーストリア大帝国に戦争を挑みます。
ただでも強大なオーストリア帝国、マリア テレジアの巧みな外交で
- ロシア
- フランス
- ザクセン王国
- スウエーデン
- スペイン
- 残存神聖ローマ帝国
を同盟に引き込む。
一方、プロイセンの側についたのは
「英国の口約束」
だけ。
事実上、プロイセンは孤立無援。
にも拘わらず、プロイセン王国は奇跡的にこの
「7年戦争」
に勝利する。
とは言ってもプロイセン王国、ドイツの統一を目指すには国土、引いては国力が小さ過ぎ。
そこで7年戦争後は争いを避け、近隣諸侯が起こす戦災を利用して、領土を拡大することを主眼にしていた。
ナポレオン戦争
ここでナポレオンが登場する。
プロイセンはフランスと国境を共有しておらず、ナポレオン(フランス)に対しては中立的な立場にあった。
ところがそのナポレオンがロシアを成敗すべく、ドイツに侵入してくる。
俗に言う
「ナポレオン戦争」
勃発だ。
当時のプロイセン王はどっちの側につくべきか、すなわち
考えた。
その結果、ロシアと組んでナポレオンに抵抗することにした。
ドイツ国内では唯一、バイエルンだけがフランス側についた。
ところがである。
ナポレオンの天才の前にプロイセン・ロシア同盟軍は敗退。
ナポレオンの一存次第で、プロイセン王国は消滅しかねない事態に陥った。
幸い、
プロイセンの改革
先祖が苦労して獲得した領土を失った事で、国内では
「原因究明」
が始まった。
これが俗に言う
“Preußische Reform”(プロセンの改革)
と呼ばれるもの。
というのも国内構造は未だに中世のまんま。
農民はほぼ農奴。
一部の貴族だけが甘い汁を吸ってた。
「これではオランダの二の舞になる!」
と、徹底性に制度の見直しが行われた。
この改革は
- 社会改革
- 教育改革
- 軍の改革
三つの柱からからなる。
ちなみにベルリン自由大学が建設されたのも、このプロイセンの改革が原因だ。
全部説明すると長文になるので、ここでは軍の改革に専念します。
プロイセン軍の改革
そもそもプロイセン軍の改革は、ナポレオンに敗退した軍の指揮官達が要求した。
これを国王のヴィルヘルム三世が
「もっともじゃ。」
と賛同。
軍は
- シャルンホスト中将
- グナイゼナウ大佐
- フォン ボイエン中佐
- フォン グロルマン中佐
- フォン クラウゼヴィッツ大尉
からなる改革員会を立ち上げた。
目標は
「旧態依然のプロイセン軍の改革」
だ。
体罰の禁止
というのも先の敗戦が
「兵士の差」
を明確に示した。
勝ったフランス軍兵士は
「やる気満々」
なのに対し、負けたプロイセン軍兵士は
「嫌々」
命令にしたがっているだけだった。
というのもプロイセン軍では滅茶苦茶な体罰が
「当たり前」
だった。
そんな軍隊では将校が命令を下しても、体罰が怖くて命令に従うだけ。
やる気はない。
劣勢になるとすぐに逃げる。
そこでプロイセン軍では公式に
「体罰禁止」
となった。
一般兵士の尊厳を尊重する事で、戦意(モラル)を高めようと考えた。
特権階級の廃止
続いて貴族の特権を廃止した。
というのもこれまでは、
だった。
これでは才能のある人材が無駄になる。
逆に言うと才能のない人間が、
「貴族だから」
と将校になり決定的な誤判断を犯し、戦闘に敗れる結果になる。
そこで貧しい農民の出身でも、才能があれば出世することが可能になった。
そしてこれまでの傭兵制度を廃止して、
参謀本部の設置
実はプロイセン軍、参謀本部の前身になる
“Generalquartiermeisterstab”
を持っていた。
この組織は今の言葉で言えば
「国防省」
の役割を担っていた。
しかしこの組織は、フランス軍が持っていた
「軍事作戦だけを考える専門家」
に戦術で歯が立たなかった。
そこで”Generalquartiermeisterstab”を進化させて
“Kriegsministerium”(戦争省)
を設置、その下にフランス軍のような
「軍事作戦の立案」
を専門にする
“Generalstab”(参謀本部)
を創設することになった。
ドイツ版 レコンキスタ(失地回復)
日本が始めて統一されたのは15世紀末。
一方ドイツは19世紀まで、統一されたことがなかった。
国民に
「ドイツ人」
という意識がなく、
「おらが村」
という考え方。
すなわち!
「村の境界線の外は敵」
という考え方だった。
だからお隣同士のバーデン家とヴュルテンベルク家が戦争をしていた。
これがナポレオンによる
「国土占領」
で一気に変わった。
そう、隣村よりも強大な敵が現れた事で、ドイツ人の間で初めて
「愛国心」
が生まれた。
これがドイツ版、レコンキスタ(失地回復)の始まりだ。
ドイツ解放戦争
この失地回復運動、正確には
“Befreiungskriege”(ドイツ解放戦争 1813~14年)
と呼ばれる。
その旗手となったのが、
「プロイセンの改革」
で近代国家と変化しつつあったプロイセンだ。
うまいことにナポレオンが
「ロシア遠征」
に大失敗。
かっての大軍がボロボロになり命からがら引き上げてくると
「待ってました!」
と、プロイセンはロシアと組んでナポレオンに宣戦布告する。
前哨戦
プロイセンが
「ドイツ諸侯よ!団結してナポレオンと戦おう!」
と呼びかけるも、賛同したのはメッケンブルクだけ。
一方、ナポレオンは
「そうは問屋が卸さない。」
と素早く反応、兵を東ドイツに送り戦闘開始。
多くの諸侯が驚いたのは、数の上で劣勢のプロイセンとロシア同盟軍がナポレオンと
「ほぼ互角の戦い」
をした事。
プロイセン軍の改革が、早くも功を奏した。
あのナポレオンでさえ、
「あの動物共にも学ぶ能力がある。」
とプロイセン軍を褒めたほど。
これをみたオーストリア大帝国、フランスに反旗を翻して宣戦布告。
結果、プロイセン+ロシア+オーストリア連合軍は数の上では互角。
これにスウエーデン軍も加わり、全部で3個軍からなる
「同盟軍」
が結成され、数の上では優勢にたった。
プロイセン軍の前進元帥 ブルーヒャー
ナポレオンは兵站基地をドレスデンに置いていた。
プロイセン軍のブルーヒャー元帥がドレスデンに向けて前進を開始すると、ナポレオンはその迎撃に出発。
ところがである。
よりによって
「前進元帥」
というあだ名を持つブルーヒャー元帥、ナポレオンと交戦しないで退却したんである。
実はこれ同盟軍の作戦。
ブルーヒャー元帥が
「囮」
となりナポレオンをドレスデンから誘い出すと、南からオーストリア軍が北上。
同時にロシア軍は北から南下して、オーストリア軍とドレスデンの西で合流。
ナポレオンは退路を断たれるばかりか、フランスからの補給線を断つ見事な作戦だった。
これを見たナポレオンは地団駄を踏んで悔しがったが、時遅し。
ナポレオンは大事な補給基地のドレスデンを放棄、ライプチッヒで軍を再編して同盟軍に
「決戦」
を挑む計画を建てた。
ライプチッヒの民族戦
こうして1813年10月に始まったのが
”Völkerschlacht bei Leipzig”(ライプチッヒの民族戦)
だ。
ナポレオン軍(実は占領地から徴収されたドイツ人民兵)と同盟軍を合わせると、戦闘に参加したのは60万人を超え、
「史上最大の決戦」
となった。
このライプチッヒの民族戦、ナポレオンが勝利した数々の戦いと大きく異なる点がある。
軍の配置図から、それが何だかおわかりになるだろうか?
そう、今度はナポレオンは攻撃をする側ではなく、防御をする側だった事。
同盟軍はナポレオンを
「ほぼ包囲」
する形で戦闘が始まった。
まるで
「ハンニバルのカンナエの戦い」
を彷彿とさせるこの包囲戦。
3日3晩続いたが、同盟軍の圧倒的な勝利に終わった。
同盟軍はその後、パリまでナポレオンをパリまで追撃してナポレオンを退冠させた。
ナポレオンの帽子
あまり知られていないのが、ナポレオンの逃げ足の速さ。
怪我をした兵隊など顧みず、
「戦況不利」
とみると、馬車に乗って戦線離脱を図った。
不運なことにその馬車の車輪が泥沼にはまり込み、身動き不能。
するとナポレオン、
「捕虜になるよりはマシ!」
と馬に乗り換えて
「ラインの向こう側」
まで逃げ去った。
プロイセン軍はその置き去りにされた馬車を拿捕。
そこには
「有名なナポレオンの帽子」
があり、今日までベルリンの歴史博物館で
”Napoleons nasser Hut”
として陳列されている。
ドイツ同盟の誕生
ナポレオンの敗退後の1815年、
ドイツ同盟とは言うが、デンマークやオランダもこれに参加していた。
しかしナポレオンを撃退して領土を回復したばかりか、さらに拡張させたプロイセンは、
「プロイセンこそがドイツ同盟の盟主であるべき。」
と考えていた。
同盟の国会はフランクフルトで開かれたが、この国会にプロイセンの代表として出席したのがビスマルク。
事ある毎にオーストリアを挑発、両国の関係は犬猿の仲にあった。
先の戦争では同盟軍だったのに、、。
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