90年代のバブル経済の破綻に悩む日本経済。過熱した不動産ブームを政府が監督せず、政治家まで一緒になって儲けまくり、挙句の果てに国が経済破綻するのは、とってもアジア的。
民主主義が機能している国では、日本型のバブル経済は起こり難い。不動産市場が過熱すると、政府が干渉して熱を冷ますからだ。
しかしだからといってドイツにもバブル景気、そしてその崩壊がなかったわけではない。ドイツのバブル経済は、思わぬ方向からやってきた。
この記事の目次
東西ドイツ合併
そのきっかけは、よりによってドイツ人の悲願、東西ドイツの合併がきっかけだった。西ドイツが東ドイツを併合する際、価値の低い東ドイツマルクは、2:1のレートで西ドイツマルクに交換される事になっていた。
ところが時のコール首相が東ドイツ国民に”Blühende Landschaften”(経済活動で活気に満ちた地域という意味)を約束した手前、1:1の交換レートで交換する政治決定を下した。
首相の言葉は当てにならない口約束の典型として歴史に残ったが、別の面ではかってない経済効果をもたらした。
東西ドイツ合併が招いたバブル経済
コール首相の決断は、その規模でみると日本政府が国民の1/3に対して、「あなたの貯蓄を倍にします。」とやるようなもの。こうして新ドイツ国民(東ドイツ国民を指す)は、一夜にしてこれまで手にしたことがなかった富を手にした。
このコール首相の経済政策と、安倍政権の「アベノミクス」との大きな違いは、ドイツの経済政策は収入面で下層の市民を対象にしていた点。アベノミクスは大企業を優遇したお陰で、トヨタを筆頭に日本企業は巨額の利益を上げたが、これを投資せず貯めこんだ。
参照 : sbbit.jp
これでは日本経済が一向に好転しないのも当たり前。その一方で収入面で下層向けの大規模経済政策は、爆発的な効果をもたらした。
これまではお金をもっていても、買う物がないのが共産圏。東ドイツ市民はショーウンドウにあふれるこれまで見たこともない商品みると、いきなり舞い込んだ富で買い捲った。その経済効果は目覚しく、ドイツでは90年初頭にバブル景気を向かえた。
東ドイツ企業たたき売りセール!
コール首相の通貨換算レートの決定は、東ドイツ企業にとって死の宣告だった。西側と技術力で及ばない東の製品は、それでも安いので、共産圏を相手に商品を売ることができた。ところがその製品の価格が一夜にして2倍になった。
こうして東ドイツ企業の大量死が発生した。これは西側の企業にとっては、人生で一度訪れるかどうかの、大バーゲンセールだった。名だたる東ドイツの大企業が、二束三文で買えた。
売れない製品を作ってる会社を買って、どうするの?
西ドイツ企業が求めていたのは、東ドイツ企業の技術力ではなく、その資産(不動産)だった。国営企業だけあって、広大な敷地を有している。破綻した会社を買い工場を撤去、更地にして売れば、数倍の金になる。こうして西ドイツでは、かってない好景気に沸いた。
東西ドイツ合併が招いたバブル経済 – ニューエコノミー
バブル経済で社会に金が大量に出回っていた当時は、インターネット黎明期。インターネット関連の業務は「ニューエコノミー」と呼ばれ、「ニューエコノミー業界」というだけで、会社の株が上場されると企業の実績を度外視して、買い注文が殺到するバブル景気だった。
しかし誕生したばかりの小さなインターネット市場。そんなに多くの会社が林立しても、需要は限られており業績が伸びるわけがなかった。
バブル経済の破綻
案の定、次第に業績が悪化する企業が続出、ニューエコノミー企業が相次いで倒産を始めた。ニューエコノミーに関係のなかった個人、企業は、我先を争ってニューエコノミー企業に投資していたので、その破綻は全ドイツ経済に波及した。
バブルの破綻は2000年3月にやってきた。ドイツ経済は一気にトップからフロップに突入した。これが歴史的にドットコム ブラーゼ/”Dotcom-Blase”と呼ばれ、歴史に名を残す事になるこのバブル経済崩壊の始まりだ。
この危機は、戦後のドイツ史ではかってない規模に発展した。
大暴落
2000年に8000台を征服したドイツの株式指標DAXは、その後、なんと3年間も下落を続け、2003年に2202を記録してやっと下落が止まった。
当時をよく知る人は、「これで底値と思ったら、また暴落して底値を更新、これが3年も続いた。お前、(俺がどんな気持ちだったか)想像できるか。」と、当時の心境をしみじみと語ってくれる。
お先真っ暗なドイツ経済
当時のドイツの問題は、株価の暴落だけには留まらない。80年代からの手厚い福利厚生制度が、90年年代になっても残っており、これが東ドイツ市民に拡充された。この制度を維持するために、企業は人を雇うと、お給料のほぼ半分に相当する額を、社会保障費をとして国に払う羽目になった。
例えば2000マルクのお給料なら、会社が払うのは3000マルク。そんなに金のかかる社員を増やそうという会社は少なく、戦後最悪にまで悪化した失業率は一向に改善しなかった。
当時、ドイツで働いていた私は、「ドイツもスペインやイギリスのように、このまま凋落の一途になるのか、」と、大いに心配していた。
社会保障制度改革 Agenda 2010
2003年、当時のシュレーダー政権が、”Agenda 2010″と呼ばれる社会保障制度の改革を打ち出した。これは年金や生活保護、失業保険を大幅にカットする大規模な改革で、国民の大反対を巻き越した。
参照 : wikipedia
しかし二期目ですでに人気を失っていたシュレーダー政権は、「もう失う物は何もない。」とこの改革を断行した。
ドイツ経済の復活 – ドイツ一人勝ち
シュレーダー政権の政策は、全く効果を出さないように見えた。国民の怒りを買い州選挙の度に負け戦で、このままではじり貧からドカ貧になるのは時間の問題。そこで2005年、シュレーダー氏はドイツでは初めてとなる国会の解散 & 総選挙に売って出た。
僅差ながらCDUのメルケル党首に負け、シュレーダー政権は日の目を見ることなく、退陣となった。ところがである。メルケル首相になってから、やっと改革が効き目を出してきた。
これはその後、10数年も続く好景気の始まりで、「ドイツ一人勝ち」と揶揄されるドイツの経済復活の原動力となった。
こうした歴史的な背景があり、経済不調に悩むフランスは、シュレーダー政権の政策をコピーしようとしているが、労働組合に痛い箇所を握られており、思うように改革が進まない。日本同様に、これが経済がいまだにぱっとしない理由だ。