ドイツ戦争 ってご存じですか?
簡単に言うと、神聖ローマ帝国から続く欧州の覇者オーストリアと新興勢力プロイセンとの争い。
これに群雄割拠していた
「大小さまざまな王国」
が加わわった為、
「ドイツードイツ戦争」
とも呼ばれます。
以下に詳しく解説します。
この記事の目次
ドイツ戦争 発端
対デンマーク戦で勝利を収めたプロイセンとオーストリア。
デンマークから分捕った領土を、仲良く山分け。
かと思いきや、
「分捕った領土の統治方法」
で争いが再燃する。
オーストリアは形の上で新領土に自治権を与え、裏から操る
「神聖ローマ帝国式 統治方法」
を望んだんです。
一方、
「ドイツ統一」
を目指すプロイセンは、新領土の併合を目指したんです。
妥協案 ガシュタイン協定
こうしてプロイセンとオーストリアの関係は
「統治方法」
を巡って、急速に悪化。
「戦争が終わったばかりなのに、また戦争か?」
と思われた1865年8月、両国は
“Gasteiner Konvention”(ガシュタイン協定)
を結びます。
この協定にてプロイセンは
「旧ラウエンブルク侯爵領」
をオーストリアからお買い上げ。
さらに!
オーストリアの管轄下であるホルシュタインに
- キール軍港
- 軍事道路
の設置を認められます。
この妥協案から1年も経たない1866年6月、プロイセン軍は
「オーストリア領ホルシタイン」
に侵攻。
こうしてドイツ戦争の幕が切っておろされます。
ビスマルクの天才外交
プロイセンの宰相ビスマルクは、
「オーストリアとの戦いは避けられない。」
と数年前に判断。
ドイツ戦争勃発に向けて密かに
「外堀」
を埋めていたんです!
まずはロシアに外交官として滞在していた時代の人脈を利用、
「ロシアは中立を守る。」
との言質を取り付けます。
イギリスとも中立条約を結ぶとフランスに外遊、ナポレオン三世と会います。
ここで
「中立を守ってくれれば、お礼にベルギー領の占領に目をつぶる。」
と提案。
そう、文字通り
「他人のまわし」
でフランスの中立を取り付けたんです。
さらに!
領土拡大を夢見るイタリアを
「オーストリアから分捕った分はイタリア領じゃ。」
と誘惑。
こうしてプロイセンは
「二正面戦争」
の心配をしなくて済むその一方で、オーストリアには二正面戦争を強いたんです!
これがビスマルクの天才外交です。
何処かの国の
「ABCD包囲網」
とは大違い。
ドイツ戦争 勃発
オーストリアはプロイセン軍の侵攻を
“Deutschnes Bund”(ドイツ連盟)
に対する戦争行為であると主張、国会に
「対プロイセン動員決議」
を持ち出し、可決されます。
そんなことは
「織り込み済み」
のプロイセン、躊躇せず直ちに作戦行動に移る。
というのも、プロイセン軍参謀本部長には
ドイツ戦争 ハノーファー王国軍 vs. プロイセン軍
提供 : Von ziegelbrenner, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3414903
ドイツ戦争、正式には
「ドイツ連盟 vs. プロイセン」
の戦いです。
そのドイツ連盟の
「盟主」
に担ぎ出されたのが、
「盲目の王様」
だったハノーファー王国のゲオルグ5世。
そのハノーファー王国、
「あのナポレオンを負かしたプロイセン」
相手に、一人で戦争できる戦力を持っていません。
そこでハノーファー軍は主力のオーストリア軍に合流する為、南下を開始。
もっともそんな事をプロイセン軍が
「指を咥えて」
見ているわけがない。
モルトケ将軍は
「合流する前にハノーファー軍を捕獲して、殲滅せよ!」
と命令。
こうした起きたのがランゲンザルツアの戦いだ。
ランゲンザルツアの戦い
南下中のハノーファー軍をプロイセン軍が補足したのが、
“Langensalza”(ランゲンザルツア)
という東ドイツのテューリンゲンの街。
プロイセン軍は敵を見るなり、
「待ってました!」
と突撃。
ハノーファー軍を郊外に追いやります。
提供 : Von StarkMC in der Wikipedia auf Englisch, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=64839362
しかし!
地図を見ればわかる通り、ハノーファー軍は山中に展開。
すなわち!
戦術上、有利な高地です。
おまけに兵力は1万7000人。
一方、平野部に展開するプロイセン軍、兵力はたったの9000人。
なのに手柄を焦ったプロイセン軍の指揮官が、初歩的なエラーを犯す。
なんと標高の高い場所に陣を構える
「倍の軍勢」
に対して、低地から攻撃を開始したのだ。
そう、
「ドイツ版 関ヶ原の戦い」
です。
勿論、攻撃は失敗。
これを見たハノーファー軍、
「プロイセン軍、案外弱くない?」
と正しく判断、防御から一転して攻撃に出た。
この攻撃に泡をくらったプロイセン軍、全滅を避けるためにランゲンザルツアからの撤退に追い込まれる。
ハノーファー軍降伏
あのプロイセン軍相手に勝利したハノーファー軍。
王様は
「撤退中のプロイセン軍を追撃せい!」
と命じる。
なのにハノーファー軍の上層部は、
「武器弾薬が足りない。」
と、これを実行しなかった。
これがプロイセン軍を惨敗から救った。
敗戦の知らせを聞かせたモルトケ将軍、脱出した軍を再編成、
「全兵力をもって全方面から全力をもって攻撃せよ。」
と厳命した。
これが効いた。
怒ったように攻撃してくるプロイセン軍を相手に、
「もう駄目ぽ」
とハノーファー軍は白旗を上げた。
そう、
王国消滅
ハノーファー軍降伏により、プロイセン軍は来たるオーストリアとの戦闘で、
「背後」
を付かれる危険を排除した。
又、
こうしてハノーファー王国は消滅。
これが原因で新築されたばかりのハノーファー王宮は、ハノーファー大学となったんです。
戦いに勝利したプロイセンはゲオルグ5世に対して、
「好きなところにいけばよい。」
と行動の自由を保障。
そこでゲオルグ5世は
「着の身着のまま」
でオーストリアに亡命。
数年後、ハノーファーに帰国することはなく、亡命先で客死した。
駐留軍破竹の進撃
ハノーファー軍を粉砕したプロイセン軍、実はハンブルクとミンデンに駐留していた
「駐留軍」
であり、主力ではなかった。
この駐留軍、
「ハノーファー王国軍撃破」
で一気に勢いづいた。
同盟国の派兵で軍を増強すると
「返す刀」
でオーストリア側についたカッセルを攻撃。
これを降伏させるとフランクフルトに軍を向けた。
プロイセン vs. オーストリア大帝国
ドイツ連盟による宣戦布告後、プロイセン軍の主力は即座に南下を始めた。
その主力は
- 皇太子カール フリードリヒ率いる第一軍
- お世継ぎフリードリヒ ヴィルヘルム率いる第二軍
という編成だ。
その兵力は合計で20万を超える。
その軍勢を迎え撃つオーストリア帝国、南下してくるプロイセン軍の主力を迎撃すべく鉄道で軍をザクセンに送りたかった。
しかし!
お城にしか興味のないバイエルンの王様は、バイエルン王国内の鉄道の使用に難色を示した。
お陰でオーストリア軍は重機を馬に引かせて、ゆっくりと主戦場に向けて北上することを余儀なくされる
その間隙を利用して、プロイセン軍は戦闘を交えることなくザクセン王国を占領。
ここからオーストリア領に向かって進軍を始めると、現在のチェコで北上してきたオーストリア軍と遭遇。
最初の戦闘を交えることになった。
オーストリア軍とその同盟国は善戦したが、
ドイツ戦争 戦術と武器の違い
プロイセン参謀本部立案の戦術が優れていたことも、プロイセン軍優勢の理由のひとつ。
これに加えて装備していた武器が大きく異なった。
野戦砲
この大砲は重くて移動に時間がかかる上、砲撃準備に1分近くかかってしまう。
そしてやっと準備して砲撃しても、
「何処に当たるかは神様の言う通り。」
という代物。
一方、プロイセン軍は口径の小さい野戦砲を使用していた。
お陰で機動性が増した。
さらに!
この砲は最新の野戦砲で、後ろから砲弾を装填するだけ。
皆まで言えば射程距離が3450mもあり、オーストリア軍の野戦砲より圧倒的に有利だった。
小銃
同じことがプロイセン軍が導入していた小銃にも言える。
オーストリア軍には火縄銃と同じ原則で、銃口の前から火薬と弾をこめる旧式の銃を採用していた。
一方、プロイセン軍は世界初の
“Nachlader”(銃の後から銃弾を装填する最新式の小銃)
を採用しており、命中精度も比較にならないほど進歩していた。
さらに致命的なことに、オーストリア軍はナポレオン戦争時のように、軍隊は直立したまま前進した。
プロイセン軍はまるで
「標的の的のように直立しているオーストリア軍」
を撃つだけでよかった。
これではオーストリア軍はプロイセン軍相手に歯が立たないのも、無理はない。
Flamkieren!(側面攻撃)
怒涛のように快進撃をするプロイセン軍。
その進軍を停めるべく、撤収中のザクセン軍とオーストリア軍は、現在のチェコの北部に新しい防衛線を築いた。
ここが突破されると、
「ウイーン侵攻」
を妨げる障害は、エルベ川しか残っていない。
この防御戦に最初に到着したのがプロイセンの第一軍。
通常、防衛線を築いた敵を攻撃するには、3倍の兵力が必要と言われている。
しかし!
無謀にも思えるこの攻撃、実は参謀本部長モルトケ将軍の案。
第一軍が北と西側から、ザクセン・オーストリア軍に攻撃をしかけて敵を引き付ける。
その間隙を利用して第二軍はこっそり迂回、敵陣地を東方向から攻める案だった。
そう、実はこの側面攻撃こそが
「主攻撃」
だったのだ!
ドイツ戦争 ギッチンの戦い
こうして始まったのが
“Schlacht bei Gitschin”(ギッチンの戦い)
だ。
もっともオーストリア軍だって
「馬鹿」
じゃない。
プロイセン軍が主力の攻撃目標とした
「敵陣地の右翼」
は森林峡谷。
オーストリア軍は丘の上に部隊を配置すれば、狭い山路を進んでくるプロイセン軍を狙い撃ちできる絶好の防御地形。
この不利な峡谷の
「突破命令」
を受けたのは、フリードリヒ ヴィルヘルム王の近衛兵連隊。
敵が手ぐすね引いている谷に果敢に突入、小銃で敵に猛射撃を浴びせた。
オーストリア軍はこの猛攻に耐えられず、第二陣地に後退。
この戦いは夜間も続く激戦だったが、明け方になって右翼陣地はプロイセン軍に突破された。
“Gitschiner Marsch”(ギッチン マーチ)
この戦いの後
“Gitschiner Marsch”(ギッチン マーチ)
という軍歌が作成された。
そう、日本でいう軍艦マーチです。
オーストリア軍撤退
敵が陣地を突破して背後に出たのに、
「撤退はない!」
などと考えるのは日本軍だけ。
オーストリア軍は
「ギッチンからの撤退」
を命令。
オーストリア軍がここで壊滅を避けられたのは、後衛を任せれたザクセン軍のお陰。
ザクセン軍は大きな被害を出しながらも、プロイセン軍の追撃を阻止した。
お陰でオーストリア軍は壊滅の憂き目を避けて、撤収することに成功した。
ドイツ戦争 ケーニヒスグレーツの戦い
提供 : Von Autor/-in unbekannt – State Archives / War Archives Vienna (Austria), Gemeinfrei, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3299769
オーストリア軍は現在のチェコの東部にある
「ケーニヒスグレーツ要塞」
まで撤退した。
ここで軍を再編成、プロイセン軍との決戦に挑むことにした。
こうして始まったのが
“Schlacht bei Königgrätz”(ケーニヒスグレーツの戦い)
である。
両軍合わせて40万人が投入された。
この戦いがドイツ戦争最大の激戦地で、ここで戦争の勝敗が喫することになる。
鋏攻撃
提供 : Von Julien Then – after Hellmut Andics – “Das österreichische Jahrhundert”, Gemeinfrei, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1621153
プロイセンの参謀本部長のモルトケ将軍、ここでも
「ドイツ軍の十八番」
である鋏攻撃をケーニヒスグレーツ要塞に対して実施する作戦を建てた。
その作戦内容は基本
「ギッチンの戦い」
と同じ。
まずは第一軍が
「乃木大将のように」
要塞に正面攻撃をかける。
防戦で
「大わらわ」
になっているオーストリア軍を、お世継ぎのヴィルヘルム皇太子率いる第二軍が側面から急襲する。
このプランが
「成功するかどうか」
は、
にかかっていた。
何しろ第二軍は
- まず主戦場から撤収、プロイセン領内で東にあるシュレージエンまで移動
- ここから敵の陣地を奪取しながら日夜休みもなく強行軍
- 第一軍が玉砕する前にケーニヒスグレーツに到達、間髪入れず要塞を攻撃する
事が必要になる。
1866年7月3日朝4時、プロイセンの第一軍は敵陣地に対し、正面から攻撃を始めた。
計画ではすでにこの時点で分散して行軍した第二軍は
「攻撃開始地点に到着」
している筈だったが、まだ影も形も見えなかった。
プロイセン軍劣勢
こうしてプロイセン軍は、オーストリア軍の
「箱庭」
となっている地形で敵を正面攻撃した。
当然、プロイセン軍は大きな被害を出した。
戦闘が始まって6時間が経過して、やっとエルベ軍が戦線に到着した。
ドイツ戦争の為に急遽、創設された軍です。
- 3個歩兵師団
- 4個騎馬連隊
- 4個野戦砲連隊
からなります。
モルトケ将軍の
「十八番」
である側面攻撃を可能にするため創設。
そのエルベ軍、進路にあった高地の奪取に手間取り、攻撃開始時間に大きく遅れたんです。
ようやく到達したエルベ軍が第一軍の右翼となって攻撃を開始すると、第一軍の負担は軽減された。
しかし、お世継ぎが率いる第二軍なしでは惨敗するのも時間の問題だった。
オーストリア軍上層部はすでに、
「勝ったぞ。」
と戦勝気分に染まり、ビスマルクとヴィルヘルム1世は敗北を覚悟した。
第二軍到着
戦闘開始から9時間も経った、お昼過ぎ。
お世継ぎが先陣として送った近衛兵部隊がやっと主戦場に到着した。
間髪入れず、オーストア軍を側面から急襲した。
オーストリア軍はこの危険を取り除くべく、予備を派遣しようとした。
まさにそのとき、第二軍の本隊が主戦場に到着した。
第二軍がオーストリア軍の側面への攻撃を始めると、まるで
「机上演習」
のように次から次へと陣地を奪取、側面が露出した。
こうなるとオーストリア軍包囲をさけるため、撤退を命じた。
この時点で皇太子が主戦場に到着して、わずか3時間しか経っていなかった。
このわずか3時間で決戦の勝敗が決まった。
戦後処理
ケーニヒスグレーツの戦いに勝利したプロイセン軍、その鼻息は荒かった。
ヴィルヘルム1世は軍をさらに南下させて
「トルコ軍でさえなしえなかったウイーン落城」
を要求した。
プロイセン軍がこのまま軍を進めれば、敗退に次ぐ敗退で士気が崩壊したオーストリア軍、大きな抵抗はできなかったろう。
しかし!
ビスマルクはオーストリアを占領すると、ハンガリーオーストリア帝国が崩壊してしまうことを危惧。
これまで散々オーストリアを挑発して戦争を招いたのに、これ以上オーストリアを弱めないように王様に助言した。
これが外交の天才のビスマルクの素晴らしい所。
ここでオーストリアに恩を売っておけば、
「次の対フランス戦でオーストリアがプロイセンの背面を守ってくれる。」
と計算していた。
そこまで損得勘定ができない軍や王様は、ビスマルク案を蹴った。
王様に抵抗したビスマルクは、首相の地位から解任される一歩手前だった。
ところがそこは流石、王様、
「大勝利に貢献したビスマルクを解任するのはよろしくない。」
と判断。
最終的にはビスマルクの忠告を聞き入れて、王様が軍を説得。
こうしてドイツ戦争は終結。
1866年8月、プラハで講和条約が結ばれた。
北ドイツ連邦
ドイツ戦争後、ドイツ同盟は消滅した。
その代わりにプロイセンが盟主の
“Der Norddeutsche Bund”(北ドイツ連邦)
が設立された。
プロイセンは北ドイツを支配下におき、強大な軍事力を持つ大国が出現した。
これが気に入らないのが、もうひとつの大国フランスだ。
ドイツ同盟のように30を超える小さな国が乱立している限り、ドイツはフランスの敵ではない。
しかしこれが統一されては、フランスの地位を脅かす存在になりかねない。
しかしそんなことはビスマルクはすでにお見通し。
ビスマルクはオーストリアを挑発して宣戦布告させたと同じ手段で、フランスを挑発し始めた。