ドイツ史 政治 & 軍事史

二正面戦争を克服! 伝説のシュリーフェンプラン

投稿日:2018年3月7日 更新日:

二正面戦争を克服! 伝説のシュリーフェンプラン

今回は伝説のシュリーフェンプランを取り上げます。

この計画は第一次大戦の前にプロイセン軍の元帥

「アルフレッド フォン シュリーフェン」

が考案した、大胆な二正面戦争を克服する攻撃作戦です。

しかし!

あまりに大胆な作戦だった為、後任者が開戦前に作戦を変更してしまった、、

開戦前夜の政治状況

政治面でドイツ統一に大きく貢献した宰相ビスマルク。

そのビスマルクは首相になる前、ロシアで外交官として勤務していた。

首相になるとこの関係を利用して、ロシアと一種の

「中立同盟」

を結んだ。

この同盟は

「どちらかの国が戦争状態にある場合、もう一方の国は中立を守る。」

 

というもの。

この同盟はドイツ統一戦争中、

普仏戦争勃発 – ナポレオン3世 vs. モルトケ将軍

プロイセンの背面を守った。

お陰でドイツは全軍をフランス相手に投入することができた。

ドイツ統一後、ビスマルクはこの同盟の延長を新しい皇帝ヴィルヘルム二世に進言した。

しかしヴィルヘルム二世は、

「余は無敵の大ドイツ帝国の皇帝である。」

と過剰な自信に満ちており、ビスマルクが何か進言しても

「馬の耳に念仏」

だった。

それどころか

「あいつは口うるさい。」

と、あっけなく首相の座を解任されてしまう。

孤立したドイツ

同盟国がなくなったロシアに

「ドイツへの復讐」

を企むフランスが接近してきたのは、当然だろう。

その後、両国は二国同盟を結んでしまった。

この時点でドイツは

「フランスの天敵」

である英国と、同盟を結ぶべきたった。

が、ヴィルヘルム二世は全く正反対の行動に出た。

英国海軍に対抗すべくドイツ海軍を大幅に拡大する計画を実行に移して、英国との仲を悪化させた。

嫌われ者のドイツの同盟国と言えば、オーストリアだけだった。

二正面戦争を克服! 伝説のシュリーフェンプラン

20世紀初頭、

参謀本部長の座をモルトケ元帥から引き継いだのが、シュリーフェン元帥だった。

 

 

シュリーフェン元帥は政治状況に鑑みて、二正面戦争を克服する戦術を立案した。

この案は

  1. ドイツ軍主力はドイツーフランス国境に建設されているフランスの堅強な要塞を迂回
  2. ベルギーとルクセンブルクに侵入
  3. 速やかに両国を横断すると、フランスの防御準備が出来ていない北フランスから侵入
  4. 主力はパリを目ざして南進、パリを包囲して陥落させる
  5. フランスを片付けると主力を速やかに東部戦線に移動して、ドイツ領内に侵入したロシア軍を殲滅する

というかなり楽観的なプラン。

これが伝説の

「シュリーフェンプラン」

だ。

今日でも、

「プラン通りに遂行したら成功したかも。」

と議論が絶えることがない。

小モルトケ & シュリーフェンプラン

ところがである。

シュリーフェン元帥は開戦の1年前に退職してしまう。

 

後任は伝説的なモルトケ元帥の甥、

“der kleine Moltke”(小モルトケ)

が参謀本部長に就任した。

すると小モルトケは天才的なシュリーフェンプランの

「改訂」

に取り掛かる。

オリジナルのシュリーヘンプランでは、攻撃を担当する主力部隊と側面攻撃を担当する部隊の比率は 7:1。

圧倒的な重点を主攻撃部隊に置いていた。

一方、(小)モルトケは

「主攻撃部隊に重点を置きすぎだ!」

と判断して、助攻撃を担当する部隊を増強した。

結果、主力と側面攻撃を担当する部隊の比率は3:1。

これでドイツ国内から大迂回攻撃をする主力に十分な攻撃力があるのだろうか。

第一次大戦勃発

1914年、オーストリア ハンガリー帝国の皇太子がセルビアで殺害される。

オーストリアはセルビアを罰するために動員を始めた。

同じスラブ民族のロシアは、セルビアが占領されるのを黙ってみている筈もなく、ロシアも動員を開始した。

ロシアと戦争状態になると、二国同盟のフランスも参戦してくる。

そこでドイツも動員を開始して戦力を国境に集結させた。

戦争の火蓋はオーストリアのセルビアへの宣戦布告で切っておとされた。

ところがハンガリーオーストリア大帝国はバルカンの小国、セルビアを攻めあぐねた。

戦線が膠着状態に陥ると、ドイツはオーストリアを助けるために対フランス戦で必要な戦力をセルビア戦線に派遣した。

このドイツの助けでオーストリアはやっとセルビアを制圧した。

ドイツ参謀本部 二つの誤算

これがドイツの戦争計画(シュリーフェンプラン)を大きく阻害した。

計画ではロシアが動員を開始しても、その貧弱な鉄道網ではその大軍をドイツ国境に配置するまで、

「数ヶ月の時間がある。」

と考えていた。

この時間を利用してまずはフランスを打倒。

その後、よく整備されたドイツの鉄道網で

「部隊を東に移動する時間がある、」

と考えていた。

ところがである。

オーストリアとセルビアの紛争で、ロシアは参謀本部が予想していたよりも早くも動員を開始して、ロシアの大軍が東プロイセンに侵入してきた。

参謀本部はこの危機に対応するために、二個軍を主力から東部戦線に派遣。

オリジナルのシュリーフェンプランが、さらに薄められてしまった。

ドイツ参謀本部の第二の誤算は英国。

ドイツ軍がベルギー、ルクセンブルクに侵入すると、英国は文句を言うだろうがドイツに宣戦布告することはないと考えていた。

ところが英国はドイツが中立国に侵入したことを理由に、ドイツに宣戦布告してきた。

しかしもう

「賽は投げられた」

後。

今更引き返しはできない。

意表を突いたシュリーフェンプラン

にもかかわらず、シュリーフェンプランはフランスを敗北の寸前まで追い込んだ。

質問
何が良かったの?

 

フランスは

「伝統的なドイツ軍の侵入ルート」

であるエルザス、ロートリンゲンに主力を展開していた。

しかし、

「まさかわざわざ遠回りして、中立国を通過してフランスに侵入を目指す。」

とは考えていなかった。

お陰で中立国、ルクセンブルク、ベルギー国境方面の防御は手薄になっていた。

そしてまさにここからドイツ軍が侵入してきた!

ドイツ軍は手薄な防衛線を突破して快進撃、パリ郊外40kmの地点まで達した。

するとフランスの政府機関、それにお金持ちは

「野蛮人」

がやってくる前に、パリから逃げ出し始めた。

マルヌの奇跡

パリの陥落は避けられないと思われていた。

すると1914年9月初め、ドイツ軍に散々痛めつけられていたフランスの第五軍は英国派遣軍の支援を受けて、反抗を開始した。

ドイツ参謀本部は

「フランスの第五軍には戦闘戦力は残っておらず、名前だけの存在だ。」

と勘違いしていた。

翌日には再編成された第9軍も反抗に加わった。

この反抗によりパリを目指してマルヌ川を渡河していた軍と、その側面を守る軍隊の間に、ぽっかりと大きな穴が空いてしまった。

東部戦線に引き抜いてた2個軍があればここに投入、戦線を安定させることができただろう。

しかしドイツ軍にはもう戦術予備が残っていなかった。

 

さらに!

オリジナルのシュリーフェンプランを修正して戦力を増強された左翼が、

「がっかり」

だった。

左翼を任されたドイツ軍はフランス軍の執拗な抵抗に遭い、ベルダン要塞を攻めあぐねて戦線が膠着。

本来の目的である

「助攻撃」

の目的を果たせないでいた。

だからシュリーフェン元帥が

「右翼を強大にせよ!」

 

と言っていたのだ!

モルトケ元帥は主力軍が包囲される危険を重視して、撤退命令を出した。

こうしてドイツ軍の進撃はパリの手前で阻止されて、シュリーフェンプランは水泡に帰した。

こうしてパリは救われた。

フランスではこれを、

「マルヌの奇跡」

と呼んでいる。

分析

ドイツ人の多くは、

「この撤退命令がフランスを敗北から救った。」

と主張する。

が、これは完全な負け惜しみ。

マルヌ川を渡河していたドイツ軍は、側面から敵の2個軍+英国派遣軍の攻撃を受けてた。

この状態でパリへ向けて進軍すれば、退路(補給路)を絶たれて

「袋のネズミ」

になるだけ。

(小)モルトケ元帥の撤退令は正しい。

東部戦線

こうしてドイツは軍の主力をフランスに派遣したまま、ロシアの大軍と直面することになった。

唯一の同盟国の

「ハンガリーオーストリア大帝国」

は名前ばかりで、セルビアに負けないようにドイツ軍を派遣してやらなければならなかった。

そしてアメリカの参戦。

この四面楚歌の状態でドイツは戦争を4年間も継続した。

さらに!

東部戦線では圧倒的に優位なロシア軍の主力を、包囲殲滅してしまう。

 

そして1918年には西部戦線で攻勢に出るのだから、ドイツ軍の戦争遂行能力には目を見張るばかり。

  1. ヴィルヘルム二世がロシアとの同盟を放棄しなければ
  2. 親戚関係にある英国との関係を悪化させなければ、
  3. シュリーフェン元帥の計画通りに右翼を強くしていれば、

戦争の結果はまるきり違ったものになったかもしれない。

-ドイツ史, 政治 & 軍事史

執筆者:

nishi

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